- おもろいはなし - 


②マルクス主義といった「外在的規範」の考察

マルクスの唯心観

資本論等、唯物論の象徴であるかのように語られるが、ではその背景と根拠は
何処にあったのでしょうか。まずこの一点に絞ってお話します。

 1844年パリで「独仏年誌」に「ヘーゲル法哲学批判」と言う小論を発表しました。
彼の宗教観を知る論文であると言えます。
 かれは19世紀のキリスト教に焦点を当てて宗教一般を批判している。
たとえばマルテンルターの宗教改革を正確に認識したが「結局理論的な変革に過ぎない」
と言っている。以下 彼の説をまとめると。
 「ルターはたしかに帰依による隷属を克服したが、それは確信による隷属をそのかわりに
 持ってきたからであった。
 かれは権威への信仰を打破したが、それは信仰の権威を回復したからであった。
 かれは僧侶を続人に変えたが。それは続人を僧侶に変えたからであった。
 彼は人間を外面的な信心から解放したが、
 それは信心を人間の内面的なものとしたからであった。
 彼は肉体を鎖から開放したが、それは心を鎖につないだからであった」と言う事になる。

 すなわちマルクスは宗教を現実不幸の表現として捕らえている。
が 私にはおかしい
 あきらかに人間を全体的に捉えていないところからの発想であるからだ。
 彼は「人間と言ってもそれは世界の外にうずくまっている抽象的な存在ではない
人間それは人間の世界の事であり、国家社会のことである。
この社会が倒錯した世界であるため、倒錯した世界意識である宗教を生み出す」
と言う。整理すると
人間の世界イコール国家社会となり、国家悪 社会悪が悪しき意識たる宗教を生むと言うのである
が 私にはおかしい。
 すべては人間は生命の働きとして、国家社会と関係なくそれぞれ存在している。
彼は、人間存在の現実性の一面には、この生命と言う人間存在の重要な一面もある事を無視している
宗教の土壌は、人間の世界の中のここにある事を無視している。
マルクスはこれらを無視して国家社会の中に人間の世界を限定してしまっている
 自然を度外視しているわけではないが人類の発展を生産力と生産関係にあると規定し、
そこに国家社会の弁証法的歴史的発展をみて、彼の階級理論に人間を繰り入れる必要から
自然や宇宙や精神と人間の関係は脱落している。
 彼は「宗教的な苦しみは、一つには現実の苦しさの表現であり、一つには現実の苦しみに対する
講義である」
「宗教は悩めるもののため息であり、心無き世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。
それは民衆のアヘンである」と言う
 レーニンも「ありとあらゆる宗教団体は、労働者階級の搾取を擁護し彼らを麻酔させる役をする
ブルジョアの反動の機関である」と言う。

が、私にはおかしい
 複雑で厖大な現実のすべてを、国家社会で包含する事は絶対にできるわけがない。
宗教は幻想とするマルクスの行き着くところは
「民衆の幻想的幸福としての宗教を破棄することは、民衆の現実的幸福を要求することである」
「民衆が自分の状態について描く幻想を捨てろと要求す事は、その幻想を必要とするような
状態を捨てろと要求することである」と言う事になり
 彼の宗教の批判はしたがって、彼の光とする世界の批判をはらんでいる事になる
つまり 国家社会におけるあらゆる矛盾が階級差別の問題、国家そのものの問題 
経済機構にはらむ問題など、あらゆる矛盾が解決した暁には幻想に過ぎぬ宗教は
消滅するだろう。と言う。

が、現実の世界はどうだろうか
 彼の言う社会的矛盾を解消した、又しつつある多くの国の現実は 悩めるもののため息が
愛も変わらず聞こえる、現実はマルクスの宗教観にたいして復讐しているのです。
 
 マルクスの宗教に関する無知は最大のものの一つで、最大の不幸の一つです
旧ソ連時代、教会は宗教活動をやめて、別の目的に使用されていたが
ソ連崩壊後、民衆の切望により直ちに復興した。
 人間は信ずるに足りる何かが必要なのです。
又、人間は信じて行動すると言う反復なのでです
これは社会主義国でも同じです。

 フランス共産党は自由の宣言の中で 宗教に関する自由をうたい
イタリア共産党はバチカンとの共存を宣言している
 国家の不幸も人間の不幸の根も、この宗教の無知による所が大きいのでは。
もちろん信ずるものが何でも良いとは言えない、オーム心理教がサリンを撒いたり。
国家神道が日本を滅ぼしたように
 しかし、宗教を好ましからざるものとした社会は、それを強行する政治思想そのものに
宗教的機能を持たせ、いつしかその思想を宗教的にせざるをえなくなるのです
社会主義国がいつしか、神様のような将軍様を作ったり
ルーマニアのかつてのチャウセツク等の独裁者が現れたり、
又ソ連のスターリンも同じでした、皆さんがよくご存知の通りです

 時代とともに民衆の心も変わっていく、
その国の、その時代の民衆の知恵で、民衆が望み満足する政治体制を
民衆が決定すればよい
 原始社会から、専制社会 封建社会 資本主義社会 と変遷してきた人類の歴史に
少なくとも、民衆が望まなかったら出現しなかったであろう、格体制である
流動的な政治体制を 理想化して固定的に考える事は人類社会の進化の無視である
と思いますが。

raberu2
ーーー知識と知恵。。。

「知識」は「知恵」を生むものです。
いわば「知識」はポンプ「知恵」はポンプによって得られる水です。
水を使えなかったら、ポンプに意味はない。
また、
「知識」という、ポンプなくしては「知恵」という水も十分には得られない
しかし
知識ある人″が″知恵ある人″とは限らない
知識をいくらためこんでも、役にはたちません。
それを使う知恵が必要です
知識によって知恵を増大し、その知恵が知識の吸収と、
それを生かしていくための働きをするのです

知識と知恵は車輪の両輪のようなものなのです

仏典に
「以信代慧(いしんだいえ)」(信を以て慧に代える)とあります
仏教の法理を信じて疑わずに実践した人が、
最後には仏果を得られるというのが、
仏法の基本的な考え方となっていますが。
つまり、実践をとおして得た智慧による以外、
仏法の真髄は理解しえない
と言う事なのです

ではその信とは何か、別の機会に又
  ・ ・信とは  ・


さて、ここからは「知識 と知恵を錯覚しいるのる」
外 的規範の問題点について、考察してみます

外的規範
キリスト教マルクス主義といった西洋の思想が「外在的規範」をもって指摘 します
人類は何度、悲劇を繰り返したことでしょう。
そうした"神"や"イデ ロギー"を特徴づ けているのは「内在 的規範」に対して
いえば,それが著しく「外在 的規範」であったということです。
/20世紀における共産主義の失敗を、文明論的な流れに沿って考えるなら、
私は何よりも「外在的規範」の挫折 と捉えたい。
とはいえ、自由主義社会に、それに代わりうるものが用意されていとは、到底いえません。
キリスト教の説く"神"や マルクス主義のいう、行動を律する規範であるというのだ
イデロギーは人問の「外 から人びとの内に入り込んできたのです」

現代の最大の問題は
「知識 と知恵を錯覚しいるのる」と言えます
「知識jを「知恵」と錯覚することこそ近代の急進主義が陥った落とし穴である といってよい。
 知識イコール知恵と思い込み知識によって描き出されたユートピアへの青写真 どおりに、
強引に社会を作り変えようとしたのが、近代の急進主義の流れでしたたとえば、
目的とするゴールが、あらかじめわかっているのなら、到達するのは早ければ早いほどよい。

それを理解しないわからず屋には、多少力ずくでのぞんでも止むをえない
知識と知恵の錯覚、すなわち「知識イコール知恵と思い込み、知識によって描き出されたユ
ートピア の青写真どおりに、強引に社会をっくり変えようと」する思考法に囚れている人が多い

そこで、ここでは、知識と知恵の問題を説明をしてみたい
世 の中 には、環境破壊、貧困 戦争 とい った問題が沢山あり、そのよ
うな課題 を何とか解決したいと勉強をする人が数多くいる。
が、そうした問題の解決 策は容易に見出せない。
そのような時にはまるで真っ暗な闇 の中を歩いているような気持ちになるものだ
しかし、 ときにそうした闇 に"光"が さすような体験をすることもある。
その感動はすさまじい。本を読んで、また、話をきいて
「ああ、この問題の背景にはこうした社会構造が あったのか」 と知ったときの感動 、
社会科学 を学ぶ原動力はこうした感動にあるともいえるだろう。
多くの若者が、はじめてこうした感動を体験するのです
マルクス主義系の本を読んだときの事だった
マルクス、もしくはそれに関連する本を読み漁っていた。
マルクス主義の理論 の"すごい"ところは、問題の「本質」を明らかにして、
その「解決策」を示していると少なくとも感じられる ことだ。
「この問題 を生み出してい る構造はこうだ。 の構造はこうすれば変革できる!」
こうした 「科学的分析」を読んで、多くの人は、「なるほど!」と感動するわけである。
   

社会にあふれるさまざまな問題を知って、その不条理さに怒りを覚える。なぜこんな現実が
あるのか、また理論的には明らかと思われ 解決策がなぜとられないのかと憤りを感ずる。
それは若い 「正義感」の発露でもあったのだが、そとき私、皆、知らずのうちに
「知識によって描き出されたユー トピアへの青写真どおりに、
強引に社会をっくり変えようと」する思考法の罠に囚われていくのです。
その態度は純粋で正しいように見えるが 、そこには大きな落とし穴が あるのです、

この点は次の 「ロゴス 中心主義」 の問題を考察することで、より明 らかになるのです。
(5)ロ ゴス中心主義
uゴ ス(Logos)と は、言語もしくは理性的法則を意味する。例えばマルクス主義は、
歴史の発展や社会の構造を明らかにする 「法則 」を明らか しているというが
この議論の前提には、社会の 「法則 」は人間の理性によって解明され、
言語によって表現されるという信念があることに注意しなくてはならない。
この信念を「ロゴス中心主義」 といい、その淵はじめ源を、
「太初に言(Logos)あり、言 は神と供にあり、言は神なりき」(8)(ヨハネ伝福音書第1
章1節)と 説いたキリスト教に求めたたのです 。
すなわち 、「『神の言葉 』 を一 切 の根本 とする ロゴス(言語)中心 主義は 、
キリスト教文明 の根底にある もっとも大きな特徴といってよい のです


言葉 は、はたして生々流動しゆく実在を、あますところなく写し取ることができるのか。
人聞はそうした実在を固定化してしまう 「言語の虚構性」の罠、「抽象化の罠」から、
どうしたら け出 ことができるのか一 このような「言葉の虚 構性 」に対する警戒 、
さらには 「言葉への不信」 さえもが、いまほど必要とされている時代もない。
先に指摘 したように、マルクス主義 、また社会科学の多くは、
言葉で表現される理性的法則によって現実の問題の原因を明らかにし、
その解決 策を示そうとする。
しかし、そもそも現実を 「あますところなく写し取る」
ロゴスなど存在するのか、 と思うのです


太初に言ありき」 は、先に述べたように、聖書のヨハネ伝福音書の冒頭 にある。 しかし、
ゲーテは、はじめにあるのは 「言葉(Logos)」 ではなく、人間の「行」であると考えた。
「太初に行ありき」だ。 これまでの文脈でいえば、人間の可能性、
その「行動 によって運命を切り開いていくカ」がはじめにある。
マルクス主義のように、理論、 ロゴスがは じめにあるのではない。


ファウストは「太初に言ありき」に納得できず「太初に意 りき」「太初に力ありき」と言い換え、
最後 に「太初に行ありき」と翻訳してみて初めて心から安堵します。
このくだりは謎めいた含意性 におおわれており、さまざまな考察が行われてきしたが、
私は端的にいっ、巨人ゲーテのもっとも東洋的な側面であり、東洋的発想ではないかととらえています。

「太初 に言ありき」 は先に述べたように、聖書のヨハネ伝福音書の冒頭にある。 しかし、
ゲーテは、はじめにあるのは 「言葉(Logos)」ではなく、人間の「行」であると考えた。
「太初に行ありき」だ。 これまでの文脈でいえば、人間の可能性、その 「行動 によって運命を切り開
いていくカ」がはじめにある。マルクス主義 のように、理論、 ロゴスがはじめにあるのではない。
人間 には不可能を可能にする力 、矛盾した具体的問 を解決する知恵がある。 その力、知恵
の発揮から出発すべきであって、それなしにどんな立派な理論を作ってもだめだ
こうした人間の可能性を信じ「楽観主義」への信頼にあるのではないでしょうか。

真実の楽観主義とは、なんらかの客観的条件が整うことによって可能となる"見通し"などとは次元
を異にし、無条件に成り立っ透徹した"自信"で あり、信念"です
かのマハトマ ・ガンジーは底光りするような強靭な人格を支える根本の力も、
非暴力を行う 間の精神的な力 の 間の信頼一 つまり楽観主義でした。

「無条件に成り立っ透徹した"自信"」、また 「人間の精神的な力への無限の信頼」、
それこそが楽観主義なのです
不可能に思える状況にあっても、それを切り開いていく力 が人間にはある。
そのカを信じる"自信"の中にこそ真の楽観主義はある。「何とかなる」というのではなく、
「自分には目の前を課題をのりこえる力がる」という信念こそが、楽観主義 に違 いありません

先 に私は「マルクス主義 」が急進主義 エリート主義 外在的規範 知識中心、
ロゴス中心主義なのに対 して、「人間主義 」の特徴が、漸進主義 民衆中心、内在的規範 、知恵重視、
言語 の虚構性 自覚にあると述べましたが。
こうした、諸特徴はいま述べた一人ひとりが不可能を可能 にする力であり
矛盾した具体的問題を解決する知恵を開くことから出発しようとする基本姿勢から説明できます
まず 、漸進主義 採るべき道を示す 「完壁な」理論などなく、現実の問題は、
一つ一つ人間が知恵を働かせて解決していくしかありません。
それには、ゆっくり進むしか方法はないでしょう。

次に民衆中心,抽象的な理論を理解する者たちが 「無知な」 民衆を指導していくではなく、
一人ひとりに内在する不可能を可能とする力を開 いていくことによって、社会を変えていこうとする。
また、内在的規範 人間の「外」 にある神や理論 によって行動を律するのではなく、
すべての人間がもつ可能性 を開くことが出発点だと思います。
さらに知恵重視 矛盾 に満ちた具体的な問題を解決するのは人間の知恵です。
理論は、その助けをするに過ぎない。
先 にあげた例を用いれば、懐中電灯の光は、自らの責任で一歩一歩前進しようとする人がいて、
はじめて生かされるのです。
最後に、言語の虚構性の自覚一ロゴスで表現される理論が現実を説明し尽くすことは絶対にない。
出発点とすべ は、ロゴスではなく、人間の「行」である。