- おもろいはなし - 



ーーー知識と知恵。。。

「知識」は「知恵」を生むものです。
いわば「知識」はポンプ「知恵」はポンプによって得られる水です。
水を使えなかったら、ポンプに意味はない。
また、
「知識」という、ポンプなくしては「知恵」という水も十分には得られない
しかし
知識ある人″が″知恵ある人″とは限らない
知識をいくらためこんでも、役にはたちません。
それを使う知恵が必要です
知識によって知恵を増大し、その知恵が知識の吸収と、
それを生かしていくための働きをするのです

知識と知恵は車輪の両輪のようなものなのです

仏典に
「以信代慧(いしんだいえ)」(信を以て慧に代える)とあります
仏教の法理を信じて疑わずに実践した人が、
最後には仏果を得られるというのが、
仏法の基本的な考え方となっていますが。
つまり、実践をとおして得た智慧による以外、
仏法の真髄は理解しえない
と言う事なのです

ではその信とは何か、別の機会に又・・・

さて、ここからは「知識 と知恵を錯覚しいるのる」
外 的規範の問題点について、考察してみます

キリスト教マルクス主義といった西洋の思想が「外在的規範」をもって指摘 します
人類は何度、悲劇を繰り返したことでしょう。
そうした"神"や"イデ ロギー"を特徴づ けているのは「内在 的規範」に対して
いえば,それが著しく「外在 的規範」であったということです。
/20世紀における共産主義の失敗を、文明論的な流れに沿って考えるなら、
私は何よりも「外在的規範」の挫折 と捉えたい。
とはいえ、自由主義社会に、それに代わりうるものが用意されていとは、到底いえません。
キリスト教の説く"神"や マルクス主義のいう、行動を律する規範であるというのだ
イデロギーは人問の「外 から人びとの内に入り込んできたのです」

現代の最大の問題は
「知識 と知恵を錯覚しいるのる」と言えます
「知識jを「知恵」と錯覚することこそ近代の急進主義が陥った落とし穴である といってよい。
 知識イコール知恵と思い込み知識によって描き出されたユートピアへの青写真 どおりに、
強引に社会を作り変えようとしたのが、近代の急進主義の流れでしたたとえば、
目的とするゴールが、あらかじめわかっているのなら、到達するのは早ければ早いほどよい。

それを理解しないわからず屋には、多少力ずくでのぞんでも止むをえない
知識と知恵の錯覚、すなわち「知識イコール知恵と思い込み、知識によって描き出されたユ
ートピア の青写真どおりに、強引に社会をっくり変えようと」する思考法に囚れている人が多い

そこで、ここでは、知識と知恵の問題を説明をしてみたい
世 の中 には、環境破壊、貧困 戦争 とい った問題が沢山あり、そのよ
うな課題 を何とか解決したいと勉強をする人が数多くいる。
が、そうした問題の解決 策は容易に見出せない。
そのような時にはまるで真っ暗な闇 の中を歩いているような気持ちになるものだ
しかし、 ときにそうした闇 に"光"が さすような体験をすることもある。
その感動はすさまじい。本を読んで、また、話をきいて
「ああ、この問題の背景にはこうした社会構造が あったのか」 と知ったときの感動 、
社会科学 を学ぶ原動力はこうした感動にあるともいえるだろう。
多くの若者が、はじめてこうした感動を体験するのです
マルクス主義系の本を読んだときの事だった
マルクス、もしくはそれに関連する本を読み漁っていた。
マルクス主義の理論 の"すごい"ところは、問題の「本質」を明らかにして、
その「解決策」を示していると少なくとも感じられる ことだ。
「この問題 を生み出してい る構造はこうだ。 の構造はこうすれば変革できる!」
こうした 「科学的分析」を読んで、多くの人は、「なるほど!」と感動するわけである。
   

社会にあふれるさまざまな問題を知って、その不条理さに怒りを覚える。なぜこんな現実が
あるのか、また理論的には明らかと思われ 解決策がなぜとられないのかと憤りを感ずる。
それは若い 「正義感」の発露でもあったのだが、そとき私、皆、知らずのうちに
「知識によって描き出されたユー トピアへの青写真どおりに、
強引に社会をっくり変えようと」する思考法の罠に囚われていくのです。
その態度は純粋で正しいように見えるが 、そこには大きな落とし穴が あるのです、

この点は次の 「ロゴス 中心主義」 の問題を考察することで、より明 らかになるのです。
(5)ロ ゴス中心主義
uゴ ス(Logos)と は、言語もしくは理性的法則を意味する。例えばマルクス主義は、
歴史の発展や社会の構造を明らかにする 「法則 」を明らか しているというが
この議論の前提には、社会の 「法則 」は人間の理性によって解明され、
言語によって表現されるという信念があることに注意しなくてはならない。
この信念を「ロゴス中心主義」 といい、その淵はじめ源を、
「太初に言(Logos)あり、言 は神と供にあり、言は神なりき」(8)(ヨハネ伝福音書第1
章1節)と 説いたキリスト教に求めたたのです 。
すなわち 、「『神の言葉 』 を一 切 の根本 とする ロゴス(言語)中心 主義は 、
キリスト教文明 の根底にある もっとも大きな特徴といってよい のです


言葉 は、はたして生々流動しゆく実在を、あますところなく写し取ることができるのか。
人聞はそうした実在を固定化してしまう 「言語の虚構性」の罠、「抽象化の罠」から、
どうしたら け出 ことができるのか一 このような「言葉の虚 構性 」に対する警戒 、
さらには 「言葉への不信」 さえもが、いまほど必要とされている時代もない。
先に指摘 したように、マルクス主義 、また社会科学の多くは、
言葉で表現される理性的法則によって現実の問題の原因を明らかにし、
その解決 策を示そうとする。
しかし、そもそも現実を 「あますところなく写し取る」
ロゴスなど存在するのか、 と思うのです


太初に言ありき」 は、先に述べたように、聖書のヨハネ伝福音書の冒頭 にある。 しかし、
ゲーテは、はじめにあるのは 「言葉(Logos)」 ではなく、人間の「行」であると考えた。
「太初に行ありき」だ。 これまでの文脈でいえば、人間の可能性、
その「行動 によって運命を切り開いていくカ」がはじめにある。
マルクス主義のように、理論、 ロゴスがは じめにあるのではない。


ファウストは「太初に言ありき」に納得できず「太初に意 りき」「太初に力ありき」と言い換え、
最後 に「太初に行ありき」と翻訳してみて初めて心から安堵します。
このくだりは謎めいた含意性 におおわれており、さまざまな考察が行われてきしたが、
私は端的にいっ、巨人ゲーテのもっとも東洋的な側面であり、東洋的発想ではないかととらえています。

「太初 に言ありき」 は先に述べたように、聖書のヨハネ伝福音書の冒頭にある。 しかし、
ゲーテは、はじめにあるのは 「言葉(Logos)」ではなく、人間の「行」であると考えた。
「太初に行ありき」だ。 これまでの文脈でいえば、人間の可能性、その 「行動 によって運命を切り開
いていくカ」がはじめにある。マルクス主義 のように、理論、 ロゴスがはじめにあるのではない。
人間 には不可能を可能にする力 、矛盾した具体的問 を解決する知恵がある。 その力、知恵
の発揮から出発すべきであって、それなしにどんな立派な理論を作ってもだめだ
こうした人間の可能性を信じ「楽観主義」への信頼にあるのではないでしょうか。

真実の楽観主義とは、なんらかの客観的条件が整うことによって可能となる"見通し"などとは次元
を異にし、無条件に成り立っ透徹した"自信"で あり、信念"です
かのマハトマ ・ガンジーは底光りするような強靭な人格を支える根本の力も、
非暴力を行う 間の精神的な力 の 間の信頼一 つまり楽観主義でした。

「無条件に成り立っ透徹した"自信"」、また 「人間の精神的な力への無限の信頼」、
それこそが楽観主義なのです
不可能に思える状況にあっても、それを切り開いていく力 が人間にはある。
そのカを信じる"自信"の中にこそ真の楽観主義はある。「何とかなる」というのではなく、
「自分には目の前を課題をのりこえる力がる」という信念こそが、楽観主義 に違 いありません

先 に私は「マルクス主義 」が急進主義 エリート主義 外在的規範 知識中心、
ロゴス中心主義なのに対 して、「人間主義 」の特徴が、漸進主義 民衆中心、内在的規範 、知恵重視、
言語 の虚構性 自覚にあると述べましたが。
こうした、諸特徴はいま述べた一人ひとりが不可能を可能 にする力であり
矛盾した具体的問題を解決する知恵を開くことから出発しようとする基本姿勢から説明できます
まず 、漸進主義 採るべき道を示す 「完壁な」理論などなく、現実の問題は、
一つ一つ人間が知恵を働かせて解決していくしかありません。
それには、ゆっくり進むしか方法はないでしょう。

次に民衆中心,抽象的な理論を理解する者たちが 「無知な」 民衆を指導していくではなく、
一人ひとりに内在する不可能を可能とする力を開 いていくことによって、社会を変えていこうとする。
また、内在的規範 人間の「外」 にある神や理論 によって行動を律するのではなく、
すべての人間がもつ可能性 を開くことが出発点だと思います。
さらに知恵重視 矛盾 に満ちた具体的な問題を解決するのは人間の知恵です。
理論は、その助けをするに過ぎない。
先 にあげた例を用いれば、懐中電灯の光は、自らの責任で一歩一歩前進しようとする人がいて、
はじめて生かされるのです。
最後に、言語の虚構性の自覚一ロゴスで表現される理論が現実を説明し尽くすことは絶対にない。
出発点とすべ は、ロゴスではなく、人間の「行」である。