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ソクラテス プラトン ❶

〇紀元前5世紀ごろ、古代ギリシャのアテネに、人間の問題を研究した哲学者ソクラテスがいた。
 そのころのアテネは、衆愚政治、におちいっていた。
 アテネ市民は、立派な人物、正義の人、一流の人物、を尊敬するどころか、嫉妬のゆえに悪口を言った
 アテネ市民は、卑しい中傷を「民主主義を守る」と言う体裁の良い言葉でカモフラージュした。
〇恐るべき、退廃と欺瞞の社会になり、一流人物を認めない社会、
 すなわち二流、三流、の人物によって動かされる社会になってしまった
〇その代表がデマゴゴスと言う男で、盛んに「デマ」を流し、有能な人物の失脚を計った
 「デマ」の語源が、このデマゴゴスである。
 又。彼らが好んで使った手段が「スカンドロン」で「罰」と言う意味で、真実とは関係のない、大衆が喜びそうな
 スキャンダルを捏造して流した。この「スカンドロン」がスキャンダルの語源である
〇そのような社会でソクラテスは戦った。彼は早朝から、市場、街頭、体育館、等、多くの人に合える所に
 出かけて行っては、温かなユーモアと、鋭い論法で、対話を続けた、
 そのため、多くの若者が心を開いた。
 ソクラテスの対話は「魂の対話」といわれていた。
 しかし、その反面、絶えず、人々の笑い者にされ、あらゆる迫害をうけたていた。
〇アテネ作家でアリストファネスはソクラテスを登場させた喜劇を上演した。
 うさんくさい邪教で若者をたぶらかす詭弁家の親分としてソクラテスを登場させた。
 大衆はこの偽りの劇を喜んだ。
 イメージの力は怖い。
 ソクラテスはメレトスと言う男に告訴されたが。理由は劇と同じだった
〇アテナ市民はソクラテスを攻撃せずにはいられなかった。
〇本当の理由は、彼の巨大な実像を無意識にせよ知っていた所の嫉妬であった
 「いかなる組織、国家であれ、その繁栄と衰亡の因は、人々の中にある」
〇ソクラテスを告訴したメレトスち言う男の背後には、黒幕の政治家、詭弁家がいた。
 彼らは知らない事が無いかのように、何でも論じた。彼らは正しいかどうかは重要な問題ではない
 相手を打倒する事が目的だった。
 アテネの青年達はこの流行に乗ってしまった。
 嫉妬社会のアテネは、退廃と衰退の坂を転げ落ちて行った。
〇そしてスッパルタとの戦争でアテネは内部崩壊を起こし。無条件降伏してしまった。
〇5年後、ソクラテスの裁判が始まった。
 世の中の無知と偏見は恐ろしい。ソクラテスへの裁判が高まる中、祖国の衰退していく姿を嘆き
、以前にも増して人々の中へ、魂の対話を続けていった。
 法廷においても、いつもと変わらず、堂々として人々に訴えた。
〇「君よ、恥ずかしくないのか。----世にも優れた人々よ。君はアテネと言う、知力においても。
 武力においても、最も評判の高い、偉大な国家の人でありながら、ただ金銭を、できるだけ多く
 自分の物にしたい、と言う事ばかりに気を使い、恥ずかしくないのか。
 人の評判や自分の地位の事を気にして、思慮や真実の事を気にかけず」と、うったえた。
〇真実を訴える事が、歓迎されるとは限らない。
  むしろ既成の権威と無縁であるゆえに、迫害を受ける場合が多い。
〇ソクラテスは500人の陪審員と聴衆の前で、自分を有利に裁判を運ぼうと言う気配は、いささかも
 なかった。
 投票の結果、僅かの差で有罪が決まった。
 次に刑の種類を決める時、彼らは「ソクラテスよ、おまえはどんな扱いが自分にふさわしいか」と聞いた、
 ここでソクラテスは素直に罪を認め軽い刑を望めば、可能だった。ところが、ソクラテスは。
 「最高の国賓的待遇である」と主張した。圧倒的多数で死刑が確定した。
 最初は無罪。次に死刑に投票した人が多数いた。何の基準もない、ただの感情に支配された裁判だった。
 彼らは、耳に痛い 真実に腹を立て、甘いおべっかを喜んだ。
 正義の人は死に、アテネは滅亡へと向かった。
〇弟子プラトンが残された。
 プラトンは涙の中から立ち上がり、師、ソクラテスを殺した社会悪を。自分は永遠に許さない。
 師の正義を、真実を、万人に示し、証明し切ってみせる。と、80で死ぬまで戦い、ペンを握ったまま死んだ。
 ソクラテスを世に知らしめたのは、プラトンだった。
〇彼は語る、正しく真実に哲学する者が、政治的支配の地位に着くか、現に、権力を持っている者が真実に
 哲学するようになるか、いずれかが、実現しない限り、人類の不幸は無くならないだろう。
 政治は-----弁論術 すなわち うまい話によって 多数の人を動かそうとする
 哲学は-----対話によって一人一人を心から納得させようとする
 政治は-----人にどう見られるかを気にやむ
 哲学は-----自分が実際にどうあるか心を砕く
 政治は-----青年を操作するため 真実から目をそらさせようとする
 哲学は-----青年うぃ育成するため 真実に目覚めさせようと努力する
 こうした対立が続く限り、哲学する正義の人は、悪しき政治の権力に、圧迫される運命にある
 




ソクラテスの名言を
 「生切る」「知識」「英知」「実践」「人生の喜びと幸福」
「家族・友人」「法」「死」と分けて書き出しました。

ソクラテスの名言を選んでみますた

〇生きるとか

一番大切なことは、単に生きることではなく、善く生きることである。

生きるために食べよ、食べるために生きるな。

よりよく生きる道を探し続けることが、最高の人生を生きることだ。

魂の探求のない生活は、人間にとって生きがいのないものである。

吟味されざる生に、生きる価値なし。

財産や名誉を得ることのみ執心し、己の魂を善くしようと努めないこと
 を恥と思わないのか。

わたしは最小限の欲望しかもたない。
 したがって、わたしは神に最も近い。

〇知識の追求について

唯一の善は知識であり、唯一の悪は無知である。

勉学は光。無学は闇。

本をよく読むことで、自分を成長させていきなさい。本は著者がとても
 苦労して身に付けたことをたやすく手に入れさせてくれるのだ。

良い本を読まない人は、字の読めない人と等しい。

〇知恵について

唯一の真の英知は、自分が無知であることを知ることにある。

自分自身が無知であることを知っている人間は、
 自分自身の無知を知らない人間より賢い。

真の賢者は、己の愚を知る者なり。

賢者は複雑なことをシンプルに考える。

〇実践について

世界を動かそうと思ったら、まず自分自身を動かせ。

少量をうまくやる方が、大量にまずくやるよりも良い。

人間の美徳は、すべて実践と経験によって自ずと増え、強まる。

〇幸福について

一番小さなことでも満足できる人が、一番裕福である。

何故なら満足を感じることは、自然が与えてくれる富だからだ。

満足は自然の与える富である。 贅沢は人為的貧困である。

幸福になろうとするならば、節制と正義とが自己に備わるように
 行動しなければならない。

人間の最大の幸福は、日ごとに徳について語りえることなり。

魂なき生活は人間に値する生活にあらず。

〇家族・友人について

父母に恩を感じないなら、汝の友となる者はいないだろう。

いかなる財宝とくらべようとも、良友にまさるものはない。

とにかく結婚したまえ。良妻を持てば幸福になり、
 悪妻を持てば哲学者になれる。

子供は、生まれたその日から、厳しくしつけなければならない。

幼にして謙遜なれ。弱にして温和なれ。
 壮にして公正なれ。老いては慎重なれ。

友と敵とがなければならぬ。友は忠言を、敵は警告を与う。

あなたのあらゆる言動を誉める人は、信頼するに値しない。
 間違いを指摘してくれる人こそ信頼できる。

〇法について

法は、善人のために作られるものではない。

悪法もまた法なり。

何人たりとも、不正に報いてはならない。

不正を受ける者は、不正を働く者よりも幸福である。

〇死について

死はいうまでもなく、肉体よりの解放にほかならず。

死は、人間のもっているすべての恵みの中でも、最高のものである。

死ぬことと自分の信念とどちらが大事か!

(死に際して)出発の時間がきた。私たちはそれぞれの道を行く。
 私は死に、あなたは生きる。どちらが良いのかは、神のみぞ知る。

善人においては、現世にても死後にても悪は生ぜず。




ソクラテス プラトン ❷

プラトンはペンを執ったまま斃(たお)れた――ローマの哲人キケロは叫んだ。その師、ソクラテスの思想を書きとどめ、行動に移した凄絶な生涯の最終章を象徴する言葉である。ペンを持って斃れるとは、まさに大哲学者に相応しい最期である。  青春行路の中で希有の人物と邂逅し、八十にして逝くまで、師との交流で得た胸中の灯を掲げて、書き、語り、奔った激浪の生涯を、私は鮮やかに想い浮かべることができる。  「そもそもそれ(肝心の事柄=筆者註)は、ほかの学問のようには、言葉で語りえないものであって、むしろ、〔教える者と学ぶ者とが〕生活を共にしながら、その問題の事柄を直接に取り上げて、数多く話し合いを重ねてゆくうちに、そこから、突如として、いわば飛び火によって点ぜられた燈火のように、〔学ぶ者の〕魂(たましい)のうちに生じ、以後は、生じたそれ自身がそれ自体を養い育ててゆくという、そういう性質のものなのです」(『プラトン全集』14所収「書簡集」長坂公一訳、岩波書店)  ソクラテスには、胸中の赤々とした灯があった。自身の何たるかを知れという、全人類への呼びかけである。それを人びとと熱く語った。その灯がプラトンに飛び火した。途半ばで燃え尽きんとした松明を、プラトンは受け継いだのである。  プラトンは数多くの書を遺した。しかし、彼の胸中に燃えるものは、いかなる表現をもっても描き尽くせない。そのために人々の真っ只中で語り継いだのである。彼が対話を重んじたのは、そこにこそ生命の真実、意志の疎通があるという信念がからであった。  その昔、同じく対話によって弘められた仏教の経典が問答形式でまとめられているのを思い起こす。生きた思想は対話のなかにこそ、最も力強く受け継がれていくのであろうか。  ソクラテスとプラトンの出会いは衝撃的であった。青年時代、悲劇の創作に自信をもっていたプラトンが、そのコンクールのためにディオニュソス劇場へ赴(おもむ)く途上のことであった。そのときソクラテスに出会い、その教えを聴くうちに根底からの回心が起こり、自分の作品を火中に投じたという。それが、ソクラテスの弟子としての彼の一生を定める契機になったと伝えられている。  それはプラトンが二十歳ごろのことであろうと一般的に推定される。  プラトンはソクラテスの名を幼少から知っていたかもしれない。しかし師弟の決定的な邂逅は、このときに始まったのである。  私はここに「師弟」というものの不思議さと美しさを思うのである。互いに知り合っているとか、接触があるといった物理的な関係では「師弟」は成立しない。二人の生命と生命、精神と精神とが電撃的に呼び合い、融合し、大いなる宇宙と人間の真理をその出会いの瞬間に共有するような、希有なる出来事こそが「師弟」を成立させるのであろう。  ソクラテスの死後、プラトンはほとんど時を接して著作を開始したと考えられている。それはなによりも、なまなましい師ソクラテスの死についての弁論のためであった。だが単なる弁明ではない。ソクラテス自身、自己の思想の完結のために、逃げようと思えば逃げられたところをあえて死を選んだのである。『ソクラテスの弁明』は、公判の席でソクラテスが五百人の裁判官と聴衆を前に行った演説を、プラトンが記憶をたどってしるしたものといわれる。そこには、魂をなにより大切にし、そのために知を愛し、自己および他人を吟味しながら生きることを訴え抜いたソクラテスの人生が凝縮されている。  まずプラトンの心にあったのは、師ソクラテスの思想、その哲学精神を未来に遺すことであったのであろう。なかでも対話篇のなかで展開されるさまざまな物の考え方は、驚くばかりである。まず一つの考えが示される。それは見事な論理に貫(つらぬ)かれており、読み進むうちに何もそれ以上つけ加えるものもなく、反論の余地など少しもないのではないかという気持ちになる。  ところが、その同じテーマで別の登場人物が語り始めると、これまた完璧な論理で、これ以上正しい議論などありえないのではないかと思えてくる。だがその結論は、先の人物が主張したのとは全く別の内容なのである。  プラトンの対話篇を読むと、人間の思考というものが、かくまで多様にありうるのかと驚きを禁じえない。いうなれば、人間の思考のパノラマを見る思いがする。それはまさに、プラトンが師から受け継いだ、思想に対する柔軟、自在な姿勢がもたらしたものであろう。  ソクラテスはただ人びとと語り、啓発した。自らの思想を文字として残すことをしなかった。弟子プラトンは、それを当時のあらゆる思想との対比、対話のもとに、見事に文字として再現し、人類への遺産としたのである。ソクラテスあってのプラトンなら、プラトンあってのソクラテスでもある。プラトンなくしては、後世の人びとは、ソクラテスの名も、いわんやその思想も、知ることはなかったにちがいない。  師と弟子のこの関係は、私の信奉(しんぽう)する仏法においても、きわめて重視される。師が針であるとすれば、弟子は糸である。針がいくら進んでも、糸があとにつながっていなければ何も残らないし、できあがらない。  師はその独創的な思想をもって、苦難を突き抜けて進む。弟子は、師が進み、切り拓(ひら)いたあとをしっかと留(とど)め、発展させて後世に残す。プラトンはまさに、ソクラテスにとって糸の働きをなしたのであった。  この糸は、三十数篇にのぼる対話篇として、ローマ時代を越え、ヨーロッパ中世のキリスト教神学の偉大な支えとなる。さらに、近世哲学の発展の源泉となり、二十世紀後半の現在もなお、世界の哲学青年にとって、一度は通らなければならない関門となっている。  ではソクラテスの独創とは何か。  いうまでもなく「汝(なんじ)自身を知れ」の格言に象徴されるように、古代ギリシャ空前の混迷期にあって、自己知を基盤にして人間の真実のあり方、生き方を再吟味したところにある。いうなれば、万人共通の出発点である。  彼はこの一点を抜きにしていかに人生を論じ、世界観を高説しようとも、根無し草にも等しいであろうと考えた。もし自分が智者の名に値(あたい)するとすれば、自らの無知を自覚している、つまり「無知の知」を悟っているからである。−−こうして彼は、当時のアテナイを我物顔(わがものがお)にしていたソフィストたちのドグマと偏見を、次々と打ち破っていくのである。  無知を自覚しているがゆえに、知を愛し、知を求める。世間の学者はその自覚がないために、臆見(おっけん)を逞(たくま)しくしつつも、真実、知を求める心がない。愚かなことである。知(ソフィ)を愛(フィロ)する−−ここからフィロソフィー(哲学)の名が起こったことは、周知の事実である。  いわゆる自己知は、単に哲学の根源であるばかりでなく、人間が人間らしく生きるための根本である。否(いな)、本来、哲学とは、ある特別な領域を形成している学問の一分野ではなく、人間が善(よ)く生きるためには誰しももたねばならぬものだ−−ソクラテスは、このことを、文字通り死をもって後世に示したのである。  その生き方によって提示された「問い」の鋭さと深さ、そして普遍性こそ、彼の哲学の真骨頂(しんこつちょう)であり、彼が「人類の教師」の名で長く称(たた)えられてきた所以(ゆえん)もここにある。  プラトンのあふれるばかりに情熱的な全生涯の足跡を通観してみるとき、私は、彼が師ソクラテスの残した「問い」をどう継承し「回答」を与えていくかと、思い悩んだであろう一本の太い線が感じられてならない。  もとよりプラトンも、最初は師の思想の忠実な祖述者(そじゅつしゃ)として出発したであろう。だがソクラテスの問いは、この優れた弟子を単なる祖述者に終わらせない、創造への触発力(しょくはつりょく)を秘めていたと私は考える。中期から、とくに後期におけるプラトンの思想を鮮やかに彩るイデア論の展開は、師の「問い」に自分なりの「回答」を模索する、全精力を傾けた試みといえよう。  たしかにイデア論は、その後さまざまな発展を遂げる観念論の原型とされ、ときに批判、攻撃の矢面(やおもて)に立たされてはきた。しかし私は、彼の思想に観念論(かんねんてき)などの哲学的範疇(はんちゅう)を設定するまえに、この試みのもつ重みに目を向けるべきであろうと思う。  プラトンのイデア論とは、体系化された論理というよりも、人間や社会がよりよく生き、運営されるための根本の条件であった。いわば全人間的営為の残した生命の飛沫(しぶき)といってよい。先に指摘した対話による構成は、なによりの証左(しょうさ)である。  しかも彼は、師の思想の継承と展開を、単に文字に託した著作として残そうとしただけではない。四十歳を過ぎたころ、青年師弟の教育のために、アテナイの近郊、アカデメイアの園に学園を創設する。  このアカデメイアの学園は、西暦五二九年、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスの禁令によって廃絶されるまで、じつに九百年間存在しつづけた。そして多くの政治家、数学者、人文学者、生物学者を生み出したのである。  ヨーロッパにおいてアカデミーの名が学問研究の権威ある正統の意をもって使われ、そうした権威ある組織の呼称とされているのは、このプラトンのアカデメイア学園の栄光の由来するといころといえよう。  教育にとどまらない。青年プラトンの政治への情熱は、晩年に至るまで衰(おとろ)えることを知らなかった。彼は自らの「哲人王」の理想実現をめざして、彼を師と敬愛するディオンの招きに応じて、六十歳の老齢の身をおしてシュラクサイへ渡っている。残念ながら意図は実を結ばず、彼はその後十数年間にわたってこの政治的事件に巻き込まれる。『法律』『ティマイオス』など、後半生を飾る数々の著作は、理性の静謐(せいひつ)ではなく、生命の激動の所産であった。  教育にしろ政治にしろ、すぐれて人間の触れ合いのなせる業(わざ)である。プラトンは、いかなる意味でも独居せる思索の人ではなかった。思索から行動へ、行動から思索へ−−八十年の生涯を閉じるまで、絶ゆることなくつづいたこの往復運動こそ、プラトン哲学の真髄(しんずい)であった。  そして、その壮大な足跡を「哲学とは死の練習である」と一言のもとに喝破(かっぱ)した彼の心根(こころね)を思うとき、若くして出会った師ソクラテスの「生と死」が、津年に彼の脳裏から去らなかったにちがいない。その全人格の重みが、イギリスの哲学者ホワイトヘッドをして「ヨーロッパの哲学の伝統はプラトンに対する一連の脚注(きゃくちゅう)から成り立っている」といわしめたのであろう。  私は、この西洋哲学の源(みなもと)としての栄誉は、ソクラテス一人が負(お)うのでもなければ、プラトン一人が担うものでもないと考えている。ソクラテスとプラトン−−この二つの人格が一つになったところに、この師弟という一つの存在のなかに、その栄誉は帰せられるべきであると思っている。  そして、まさにそれこそが、あらゆる歴史の変遷のなかに、不死鳥のように蘇(よみがえ)っては、暗雲のなかに人間英知の大空を開いてみせた力の源泉でもあったのであろう。


















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