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青い空と緑の大地の話をしよう
十界論 九識論


@  法則
 この世には 様々な数え切れない程の法則があります
万有引力の法則 アルキメデスの法則 物質不滅の法則
電機関係の人におなじみの フレミングの法則 オームの法則
等があります
     ニュートンには悪いが 
     重力の法則が当てはまらない 量子力学の原始の世界があり
     万有引力の法則もも 重力が引き合うのではなく 空間の歪みによる
     等の説があったり 重さ0になる理論があったり 又 反重力の存在 とか
     科学の世界も 大変です  なかなか 絶対とは言えないのです
   
 法則には 北の偉そうな将軍様が作った いいかげんな法則や 
面白い「マーフィーの法則」などもあります・・・これ面白いけど 先にいきます
   
 憲法もあれば道交法もある
国会では 今でも新しい法を作り続けています

 しかし 数ある法則の中でも  自分の一生を左右し
密接にかかわり続け 逃れる事ができない 
大事な 究極とも絶対とも言える法則が二つあります

 一つは 原因と結果  (因果)
もう一つは 生きると死ぬ  (生死)

 いかなる科学者も思想家も いかなる財閥も権力者も
聖人君子も この2つの法則に逆らう事も逃れる事もできないのです
この 何よりも大事な法則を 正しく学ぶ事は
すべてに優先する と言っても良いと思います

 因果の理法 生死の二法 を正しく知らない事は 
夢遊病者のように 家に帰れず 徘徊する老人のように 
自分は何処から来て 何処へ行こうとしているのか 
自分は何をしようとしているのか 分からないのと同じだと思えるのです

 羅針盤の無い船が 大海原で漂っているのと同じです
山で 道標を無視しているのと同じです
狭い 暗い 洞窟の世界から 一歩も外へ出ないのと同じです

こう 最初に結論を言い切ると 感情的に 反発する方や 
文句を言いたい方も 大勢いらっしゃると思いますが
何故かを 分かり易く ご説明いたしますので お待ち下さい
 
 多くの人は「何のために」が分からないまま 
この世と言うの舞台から去るのです
 洞窟の外の世界を知る人から見ると
羅針盤を持っている人から見ると
因果の理法 生死の二法を正しく知る人から見ると
残念でならないのです

プラトン ・・・・ ・・・http://rokusann.sakura.ne.jp/newpag27.htm
の話だったと思うが
生まれてから今に至るまで 薄暗い洞窟で生活している人達に
「青い空と緑の大地」の話をしても 誰も信じないのです
 この人達は 壁に映る白と黒の影と 岩に生える茸と 
こうもりのギャー と言う泣き声がすべての世界なのです
それが自然であり 常識であり 普通なのです
  (井の中の蛙 大海を知らず)の 西洋版です

 誰かが「さあ 外の世界を見てみよう 
七色の花に小鳥の囀(サエズ)り 
太陽に照らされた大自然を」と さそっても
皆 話を聞くどころか 外の世界を語る人は皆から 
バカにされ きちがい扱いにされ 迫害も受けるのです

 歴史上現れた 賢人 偉人の多くが迫害されたのと
同じ方程式です
高い山は 常に風当たりが強いのです
歪んだ社会では 正論を言う人を 嫌うのです

 現代人に「因果の理法 生死の二法」を理解してもらう事は
・ 紙芝居しか知らない人に 4Kテレビを理解してもらうように
・ 火の見やぐらしか知らない100年前の人に 
  東京スカイツリーの高さを説明するように
・ 荒川の土手しか知らない人に ヒマラヤ登山を教えるように
 いや それ以上に難しい事だなのです

 絶対 信じないのです 
推し量る基準(ものさし)がないからです
自分の小さい知識 経験からは創造できないのです 

 因果(原因と結果)は安全の法則 
生死(生きると死ぬ)は幸福の法則
 因果は信ずる  生死は演ずる

又々結論を言ってしまいました  あしからず
更に 結果を変える 「縁」 も 理解しなくてはなりません

 不思議なもので 人は因果(原因と結果)を無視した 
非科学的な 論理的に説明不能な 妥当性のない
奇跡とか 偶然とか 神のお告げとか 
裏付けの無い予言とか 占い、おみくじ、ハルマゲドン、とか 
単なる金儲けの お払い 厄払い お守り 霊感とかを
簡単に信ずるのです
                「霊」 「占い」 とは

 たしかに 現代の科学ではまだ解明されていない
説明できない 不可思議な現象は確かにあるのです
科学者は ありのままを受け入れる  とか
何らかの手が加わった とか
どんなに研究しても 白旗を揚げる 説明不能もあるのです

 だからと言って「天の声を聞いた」とか
霊感があるとか 守護霊と話したとか
  何と人間は単純なんだろう と思わずにはいられません

 統計学的に云々ならば 手相や人相等でも
ある程度の確立で 当たる場合もあるでしょうが
しかし 人生を賭けるには あまりにも危険です

 そして最も科学的な 普遍妥当的な 絶対ともいえる
因果の法則を語る人の言う事を 聞かないのです
信じる人は少ないのです
 どうでも良い事に お金や時間や命を使い 
大事な(生と死)の問題に関心を示さなのです 
何の疑いもなく エセ宗教にまかせっきりなのです






A人間の歴史と課題

ここで 少し 確認しておきたいのです
  太古の昔、人は禽獣と変わらず、善悪の判断も無く、
親を敬う事も、恩を感じる事も無く生きていたのです
 やがて、道徳が生まれ、宗教が生まれ、人間らしくなったのです
キリスト教にしても 仏教にしても 哲学 儒教 道教にしても
そな基本は正しいのです
                キリスト教と 仏教の 類似点 その他  
  普遍的な心理を含むものがあり、
人間の捉え方にしても、事物の本質の掘り下げ方にしても、
万人が納得いくものがあった、と言えます
 もし 人類文明に宗教 哲学が無かったら、文明の発展もなく 
人間の知恵は いかにも底の浅いものになっていただろうと思います 

 当初 宗教 哲学は人間のためにありました
しかし 歴史は逆でした
それは 宗教が悪いのではなく
聖職者 僧侶の堕落が原因なのです
  特権階級のようにふるまい 宗教を仕事にし 民衆を見下し
権力者に阿るのです 
十字軍に象徴されるよう 戦争をはじめるのです 
 日本とて同じ事です 源平合戦の発端の保元の乱は坊主です
  宗教は悪くなく 正しいのです
しかし 今の社会 原始宗教に憧れ 高度な精神文明を学ばず 
精神が太古の昔に 戻してしまった感があります

話を戻します

 この世は科学です 原因のない結果などあるはずがない 
奇妙に見える現象にも 原因があるのです
 この世は生死です 死なない物などあるはずがないのです 
大宇宙を含め生死生死の繰り返しです

 これが 時空を超えた 大宇宙の絶対の法則であり 
生命の絶対の法則なのです
そして その生命の法則を知る事で 自分自身に 計り知れない 
恩恵をもたらすのです
ここが出発であり終着なのです
 
お断りしておきますが 現代科学でも 説明不能な現象 結果
が出ている事も承知した上で 話を進めます 
    (この事については九識論の所で少々触れます)

     
 因果(原因と結果)  生死(生きると死ぬ)  
   ↓           ↓        
安全の法則  →    求める   →  学ぶ
   ↓           ↓         ↓
 絶対の法  →   幸せの法則  →  学ぶ
   ↓           ↓         ↓
  信ずる   →     演ずる    →   学ぶ          
   ↓           ↓         ↓                 
   歓喜   →     歓喜    →   歓喜 → 大歓喜(悟り  

  簡単な図面を 分かり易くと思い 書いてみました  
かなりおおざっぱで 異議のある方も大勢いらっしゃる事と思いますが
承知の上で 
 すなわち (信ずる.演ずる.学ぶ)ができれば歓喜に至ると言う事です
洞窟にいる人が「青い空と緑の大地」を初めて見る事ができるのです
最終目的が 大歓喜です  この歓喜がすごいのです
又々結論が先になってしましましたが

歓喜は 勇気を呼び覚ます力です
歓喜は 苦悩を突き抜ける力です
歓喜は 生命を蘇生させる力です
歓喜は 共感の調べを奏でる力です

歓喜をわかりやすく
      ベートーベン・・・ http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage28.htm
の(第九)歓喜の歌は有名です
同じようにあの第5番(運命も 第6番(田園)も
歓喜で終わるのです
まあ 私が好きな曲だから たとえで言います
 しかし 見た目では彼の何処にも歓喜は見当たらないのです 
不治の病と戦い 世の不正に怒り 生涯貧乏です
 だが 透徹した芸術家は 人間が最終的に求めるものが
目的が 歓喜である事を悟ったのです

まあ 曲の構成から 苦しみを乗り越えて 歓喜に至る
と言う事ですが
苦しみを乗り越える方法も大事ですが
今回 その奥にある 根本的な生命を語り
そこからの解決を目指すのです

 「ああ なるほど分った」 と言われても 困るのです
この究極の課題を 帰納法的(段階的)に語ることがいかに困難か
それを承知で 語らせていただきます

変な たとえを多用しますが 分かり易くと思い あしからず 
i異論がある事も承知の上です
本意を少々 逸脱するかもしれません

 先ず→ 因果は何故 安全の法と言うのかです 
この一部でも知れば安全性が高まるからです
 たとえて言えが 徘徊老人に 赤は止まれ 青は進め
と言う 簡単な 道交法を教えるだけで 安全は増すのです

 次に因果を→絶対の法則と言ったのは 先に説明した通りです
(この世は科学で 原因のない結果などあるはずがない)
と言う事です
もちろん最初にお話しした 因果の法則以外に 
様々な法則があるのは承知の上で
また 結果は絶対に変えられない と言うことではありません
そこに介在する 「縁」の存在が重要になりますが 
この説明は後で 
 
 道交法なら逃れられる事もあるでしょう 国法でも抜け道があります
しかし 因果の法は おまけも無ければ割引もないのです 
もちろん例外など絶対にありません
科学でも 説明不能な事象がある事は承知した上での話です

 次に→ 信ずるとは 道交法は見えないのです しかし厳然とあるのです 
条文に書かれていても 信じて初めて有効となるのです
 赤信号で道路をわたるとどうなるか 
事故にあってから信ずるのでは遅いのです
 因果の法則も見えないのです 実験をすれば例外なく答え(結果)が出ます
その理論を100年間 研究し 納得するより 信ずる方が早いのです
だから因果は信ずると結論したのです

 又 信は知恵を生み出します 知恵は知識を汲み上げます
信は 分からなかった事が 分かるようになる
疑いは 簡単な事でも分からないのです

不信はその行動を止めます だから学べないのです
信は結合 不信は分断
信は平和 不信は戦争
信は善 不信は悪と
信は勇気 不信は臆病と結論します       
信について 後日詳しく語らせて下さい
                      信の影響 善人 悪人 

信は行動に移り その結果を見て学び 
更に信が強くなり 歓喜するのです

 次に生死は必ず訪れる自分の大問題でもあるのです
関係の無い人等いません 例外なく 必ず訪れるのです
 いかに財産を残そうが どんなに名声を高めようが 
どれ程多くの知識も体験も 死を目前にした時 
何の意味も無くなるのです(一応です) 
 すべてを捨てて この世の舞台から去るのです
(これも一応です)

ビクリルユゴーは
(人間は 生まれながらにして 
すでに死刑の宣告を受けた存在なのである)
と言っています
ハイデッガー(実存主義者)
(人間は死への存在である) 等など

 この最も大事な問題を抜きにして 
この世の幸せなどあるはずがありません
だから 幸せの法則 と言ったのです

 求めなければ無常な人生で終わります
求めて知れば歓喜(幸福)に至るのです
死の問題と真の幸福の問題はイコール同じなのです
生の問題と真の幸福の問題もイコール同じなのです


 次に →  求める とは
それは 自分では分からないからです それが普通です 
知識も経験もありません 義務教育では教えていません  
学校の先生に 聞いたら 
「そんな事 考えるのはやめなさい」
なんて言われそうですね
今の社会 学ぶ事を避けている傾向があります

 ここで悪い例を一つ
ピエール・ガッサンデー(フランスの哲学者 数学者)の言葉を紹介します
「私は何故、生まれてきたの知らない どう生きれば良いのか
知らないで生きた そして何故死ぬのか 分からないまま死んでいく」
と 悲しく言いました
 有名な哲学者と言えども 分からないのです

  死の問題は 生命誕生のメカニズムと同じように 
今現代に至るまで謎であり 世界中の学者の
大問題なのです 論理的に成り立たないのです
 だから人間は神が作った とか 宇宙船に乗って地球に来た 
なんて 事を言う人が出てくるんです
でも 嘘 とはいえないのです 
本当の事が分からないからです
論理的に成り立たないから宗教だなんて 思っている人いますね

又 一度死んだ人に死後の世界を聞くわけにはいきません
(入り口まで行って戻って来た人はいますが)
だから 判らないのです だから求めるのです 
求め続けるのです あきらめればそこで終わりです

 では「何処で どのようにして求めるか大問題です・
「簡単ともいえるし難しいとも言いえます」
エセ宗教に求めてはいけません 騙されないようにしましょう


死の問題は 科学的に言うと 物質不滅の法則 から論じると
死は無にならないのです

科学的 (原因と結果)を考えると 前世が無ければ 来世が無ければ
論理的に なりたたないのです 説明できないのです

他人の物を盗むと 今度自分の物が盗まれる
人を殺せば 今度は殺される・・これ科学です

健康で生まれる人と 障害者で生まれる人と
何故 差別ができるのか
それぞれ 原因があっての結果と見るのが 論理的
すなわち 生まれる前の世界で 原因を作った と言う
のでなければ 科学は成立しないのです
 
死後が無い と言うのは 非科学的です

この世に 奇跡 とか 偶然とか ありません
この世は 原因と結果 できています
この世に 原因の無い結果など エセ宗教の都合の良い屁理屈です



先ほど生死は 幸せの法則といいました
これは 科学の分野での研究に限界があります

哲学 文学 詩人 芸術家 に聞いてみましょう
先ず 透徹した人物にヒントを求める事にしましょう

 カールブッセの有名な詩に
(山のあなたの空遠く・・・・からはじまり・・・ ああ涙さしぐみ帰りきぬ)
チルチルミチルの
(幸せの青い鳥は 自分の直ぐ近くにいたのです)等 
ヒントはそこら辺にあります 
先ほど 死の問題と真の幸福の問題はイコール同じと言いました
(幸福は直ぐそこにある)と言うのです

 透徹した哲学者 詩人 文学者は
シラー ・・・・・(汝の運命の星は汝の胸中にあり)
ソクラテス・・・・(汝自身を知れ)
デカルト・・・(我思うゆえに我あり)
釈迦・・・・・・(汝自身を省みたずねるが良い)
カント・・・・・(・・・我が上なる星と 我が内なる道徳法則とである)
ユゴー・・・・(・・・空よりも大きな眺めがある それは魂の内部である)
ルソー・・・・(私が語らなければならないのは人間についてである)
カーライル・・・(理想は我々自身の中にある)
等々 世界的な文学者 哲学者 詩人は 口をそろえたように
 (一番大事なものは貴方の中にある)と言っています

 答えは すぐそこに いや貴方の中にあると言うのです
キリスト教の否定に聞こえますが
それはともかく 簡単ともいえるし 難しいとも言いえます

この世のも因果も 人間も運命も 皆「神」が作った
と言う 自分以外にある とするのは楽ですね 議論しなくてよいから
深く考える事もしなくてすむから
しかし 西洋哲学 世界の文学 仏教も その逆ですね


 ここで注意があります
 我見 偏見の聖職者のなんと多い事か
無学のエセ聖職者に踊らされている人のなんと多い事か
 浅い 幼稚な教えに 思索する事も 学ぶ事も 
疑問をいだく事も止められ だだ信ずるだけの人 
任せっ切りで楽に見えますが危険です 
だから私は → 学ぶ → 学ぶ → 学ぶ と羅列したのです

 哲人 聖人は 幸福の因は近くに 直ぐそこに  
貴方の中(内)にある と言いますが 
エセ宗教家は 幸福の因は別の所(外)にあると言います
自分以外の外に求めます 霊感商法等 その典型です

 例外なく 因果の法則を 生死の法則を無視します 
それが 得体の知れない 全知全能の神であったり 
遠い遠い天国や極楽であったりするのです 
お告げ 守護霊 お札 坪 教祖の写真であったりするのです 
妥当性がないのです 都合の良い金もうけです
 
  私達は 自分の事を全く知らないのです
 先穂で羅列した 透徹した哲学者 詩人 文学者はの英知は
自分を知れ 貴方の中に 等など  くしくも 方向は同じです
そこから学ばなければなりません

 もし学ぶ事ができたら 取得したら 
迷い無く大胆に演ずる事ができるのです
だから生死は 演ずると結論したのです

生命の個別化の原理、
差別化の法則  
個性化の法理 
深層の実態

難しそう 
学ぶ気がしない 忙しい 暇が無い 専門家に

いやいや 簡単に分かるのです
 求めれば実に簡単なんです 
一瞬で分かる事もあるのです
 もちろん生涯分からない事もありますが
 
仏教の経典に 竜如と言う女性(子供)が出てきます 
一瞬でわかったと伝えられています
とても良い たとえ話です
何故一瞬で そんな難しい事を 子供が分かるの 
知識 経験 立場 国 人種 一切関係ありません

 先に洞窟で生活している人達の話をしました
「青い空と緑の大地」の話を誰も信じないのです
これは 求めようとする人がいないからです 
一歩外へ出れば 簡単なのです
 一瞬で すべてを学び すべてを理解する事ができるのです
だから「簡単に分かる」 と言ったのです
仏典の 竜如と言う女性(子供)は それなのです

先ほど (不信は簡単な事でもわからない)
     (信はわからない事がわかるようになる)
と言いました 
強い信は強い知恵が沸き 行動に移るのです 早いのです

 先程 「紙芝居しか知らない人に 4Kテレビを理解させるような」とか
「火の見やぐらしか知らない100年前の人に」とか 
たとえ話をしました すなわち 求める物は
 自分の常識の はるか彼方にあるのです
いや 常識の外にあるのです
一瞬で分かるか 一生分からないかは 
信ずるか 疑うかで 決まるのです

アインシュタインは
常識とは18歳以前に心に沈殿して 積もり積もった偏見以上の何物でもない
それから後に出会う どんな新しい考えも この常識と言う自明な概念と
戦わなければならない  と 言っています

 普通に生きてきた人に 小さな世界に満足している人に 
常識を捨てる事はできません 色眼鏡を外す事はできません
だから難しいともいえるのです

 しかし 真面目に世の中の矛盾に怒っている人ならば 
この世の地獄を体験した人ならば  
生命の 大宇宙の不可思議に驚いた人ならば
(何故だろう 何故だろう 何かある)と 求めている人が多いのです 
求めれば簡単なのです

 


 ここからいよいよ核心部分に入ります
暗い洞窟から一歩踏み出す きっかけになればと思います
 専門用語を使わずに 理解しにくい表現を使わずにと 思っています
そのため 本意を少し逸脱する場合もあるかもしれません
 あしからず





 B生命の個別化の原理

先ず命とは我とはいかなるものか
生命の誕生は謎であり 一個の人の生命は 地球的規模です
 その地球の海水は 人間の血液と その成分がきわめて近く
体温があり 自ら動き 自己修復能力をそなえている
 まさに 地球自体も生き物と言ってもおかしくはありません
もし 地球が生き物としたら 生命誕生は少し理解できます
しかし栄養吸収・防御・修復・再生 と言う生命活動に
今の所 当てはまらない部分もあります
又 地球に意思があるか の研究もあります

・・・ここの説明は 生命科学や物理学等で
何処にでもあるので 長くなるので カットします
でも 一度は 興味をもってもらいたいと所です
 
 生命の我の個別化(グループ化)の原理をお話します
 先に「この世の地獄を体験した人ならば求めている人が多い」
と言いました おおむね謙虚な人が多いからです
大病を患った人は 深い人生の味を知っています
聞く耳をもっています
 皆さんもお分かりでしょうが 順風満帆で来た人は 人の言う事を
なかなか聞きません

 苦しみを分析してみましょう
    
 時間がなかなか進まない  体が異様に重い       不自由
    ↓              ↓                ↓
極限の苦しみは時間が止る  底なし沼に引き込まれる  拘束されている
    ↓              ↓                ↓
   無時間            最低            叫び声も出ない
    ↓              ↓                ↓
   無間 です          地 です           獄 です

すなわち 無間 地 獄 の一部の体験です  本質は(怒り)です
 
 そこからの脱出は いかに困難か
体が異様に重く 立ち上がる事が苦痛である 
この状況が永遠に続くと思われるほど時間が進まない 
鎖で縛られているように 自由がない

自分への怒りが 他人への怒りが 世の中への怒りが
炎となって 自分を焼くのです そして 恐ろしく寒い

地獄にも様々な苦しみがあり 八大地獄と言って 分類されています
             後日 機会があったらご説明します

それを体験した人は 
そこから脱出した人は 二度とあの苦しみを味わいたくない
と思い 常に考え 又努力をしています 
謙虚な人が多いです
聞く耳をもつ事ができる人は早いのです

 ここで一つの結論を述べておきます
前の方で 多くの詩人 哲学者が述べた 結論を羅列しました
「直ぐそこに 更に自分の中にある」と ・・・ そうです
すなわち 地獄の苦しみは貴方の中にある我が苦しむのです
 天国のような快楽の命も貴方の中にある我が喜ぶのです
貴方の中には この二つの命だけではなく幾つもの別の命もあるのです
生命の個別化の原理には 地獄(苦しみ)の命 天界(喜び)の命の他に
八個の命があるのです ここが入り口です 

始めに 地獄〜修羅

貴方の命の中にある地獄(苦しみ)の世界 略して 地獄界といいます

1)地獄界 → 苦しみにしばられた(拘束)最低の命、生きることが苦しみ。
          (時間が遅い)本質はいかり(怒り)
          心身共にこの怒りが占領してしまい、他に余裕がない
              気分が悪くなるので ここの説明は そこそこで 終わり


2)餓鬼界 → 目の前にある欲望の命 欲望が満たされずに あせる 不満 苦しむ命
         (物質欲 所有欲 食欲 性欲 権力 金力 その他) 本質は貪り(むさぼり)
         しかし 悪いとは限らないのです 
         欲望が無ければ医療や文明の発展もありません 
         自分の成長も 学問の追及もありません 
         
         この欲望は悪いと決め それを絶つために 様々な修行をしている僧侶がいますね
         的外れの 時代遅れの 奇異な 荒行等をする 断食をする 修行僧
         釈迦自体 若い時修行しました が それが 間違いである事を言っています
         
         欲望は智慧によって煩悩を正しくコントロール(制御)するものです
         これを専門用語で「煩悩即菩提」といいます。
         
         修行しながら死んだ僧侶を生き仏だとか 笑っちゃいますね ただの餓死者です
          東南アジア諸国の小乗教の僧侶は 日本の生臭坊主とは違い
         財産を持たない 酒も女もバクチもやらず 質素な生活に欲望はなく
         回りから尊敬されています 着る物 履物 皆同じ
          しかし 自分の成仏のみを願う 自己中です 模範的な生き方ではありません
          性欲を絶つため 性器を切り取る僧もいます 笑っちゃいますね 
         政治経済にはかかわらず ごく珍しく行動を起す僧がたまにいますが
         あ ダライラマ(チベット)は迫害されたから反発したのですね 
                                             
                 私の勝手な話
                 チベット仏教はとにかく僧侶が多過ぎ 一家に一人僧侶が居る事は名誉だとか
                 1949年つまり中国革命の年、人口130万に対し僧侶は40万
                 20世紀には男の半分以上が寺にいたことになる。ところによっては3分の2
                 皆 働かない 男の出家が多すぎたために女の半分は余っちゃた。
                 男女差別 バランスが悪い ダライラマさん ノーベル平和賞???
                 持ち上げ過ぎ ペキンダック食って 指導は浅い言葉
 
                 私の勝手な脇道
                 男女差別反対でーす 仏教の経典には
                 「女人は地獄の使いなり よく仏の種子を絶つ 
                 外面は菩薩に似て 内心は夜叉の如し」とあり 確かに男女差別でしたが 
                 釈迦は 法華経で男女差別を撤廃しました  それなのに何故でしょう
                 すなわち 法華経以前の経典を用いているからです 
                        
                 チベット仏教も 東南アジア諸国の仏教も女性の僧侶はいません 
                 生まれ変わって 男に生ま変わらなければ成仏しないのです 
                         
                 幸い 大乗教の日本には男女差別ありません尼さんもいます よかった 
                 でも 今でも女人禁制の山ありますよ 昔は 富士山だって 立山だって 
                 女は登れませんでした
                 又 念仏で往生するといわれる 阿弥陀のいる極楽には女性がいないんですよ
                 女性は極楽に行くと 皆男になっいちゅあうんです 
                 私にとっては地獄です そんな所絶対行きません 
                 「南無阿弥お陀仏」は嫌いです …?ж・к   
                 何故か
                 阿弥陀仏も極楽も釈迦の空想の産物だからです それと同じように
                 地獄が地の底にある と言うのも 極楽が西の彼方にあると言うのもウソです 
                        
                 当時のインドでは悪人も多く 無学 無知の人達が多くいました
                 そういう人達に 先ず 悪事を止めさせる事が大事です やむ負えなず 
                 悪事を働くと (地獄へいくぞ)と得いたのです
                    
                 仏を信じない 無知 無学の人達には 真っ赤に染まる夕焼けの彼方に 
                 理想の地(極楽I)がある と言って 仏道心を起させたのです  
                 緊急避難的な方便(真実に導くための ウソだったのです
                        
                 危ない道路で遊んでいる幼児に 皆 (ガリガリ君上げるぞ)と
                 嘘を言って 幼児達を非難させるようなものです
                 南無阿弥陀仏…?ж・いくら唱えても 極楽に行けるわけありません
                 極楽なんて無いんだから   ああ 日蓮が 
                 「中略・・・委細に尋ねれば 地獄と言うも 極楽と言うも我が5尺の身の内に見えて候」   
                 そうそう 自分以外に求めるのを「外道」  
                 自分の中に求めるめるのを「内道」と言うのでしたっけね
            
                 余談をもう一つ 
                 西郷隆盛の言った事だが
                 「命もいらず 名もいらず 官位も金もいらぬ人は 仕末に困るものなり」 とか
                 こんな欲のない人いるのかな こんな奴と付き合うの大変そう 確かに仕末に困る
                 欲は適当に持ってください いや 大いに持ってこそ進歩があるのです
                 しかし コントロールできなければガメツイ餓鬼道に陥るので要注意
                 ガンジーの言う 道徳無き商業 も 餓鬼道に陥るので要注意


            又余談 今 アメりカのトランプ新大統領の話題が多いですが 彼はこの餓鬼界です
           
      判断の基準が 「損か得か」「好きか嫌いか」です
                 普通「の人は もちろん損得を考えますが「道理に反していないか 正義か悪か」
                 等も考慮するものです 欲望にも 理性が働きコントロールします 
                 彼にはそれがない  非常に危険です 甘く見ていると大変です
                 世界的規模で 大変な時代が やってきました
                 アメりカだけでなく 社会的背景の乱れを考える時が来たと思います
                 人間の問題を考えなければならない時が来たと思います    
                                        余談はきりが無いので おわり


3)畜生界 → 目前の利害に理性が働かない本能で動く動物のような命。
          (弱肉強食 )本質は愚か(おろか)対照的に(賢い)は人
               (畜生について て更に詳しく書く予定です)
               ここは 詳しく書かなくても 誰でも分かりますね
           
           畜生は恥を知らないんですね 恥を知らない人間は畜生です 
           畜生は明日の事考えないんですね 同じように目先で動く人は畜生界
           ちょっ待って そんな人間より
           冬のために せっせと食料をため込むシマリスの方がましでないですか
           
           畜生は喧嘩の強いのがリーダーです 暴力をふるう人間は畜生界ですね 
            となると 戦争は餓鬼界と畜生界と次に説明する修羅界の人々の成れの果て 
           地獄を作ります 本質は愚か(おろか)です・・納得です
           ちょっ待って うちで飼っている 猫の方がましだ(賢い)喧嘩しないからね


4)修羅界 → 驕(おごり)り高ぶる命 常に他人に勝ろうとする命。
          小さな自分を隠して偉そうにしている人 エゴイズムの正当化
          争いを「修羅場のような」とか ここからきています
          少し 自我意識が芽生えた 支配欲 征服欲 自然破壊等も 本質はへつらい
          偉そうに尊大ぶっている人が 真実がばれると 急に小さくなり 
          臆病になった例 ありますね
          
          修羅とは阿修羅王の事です 帝釈天との戦いに破れ 尊大ぶっていた修羅は
          帝釈天に真実を見抜かれ 小さくなったて蓮の葉の裏に隠れたのです
          
          注・・・葛飾柴又の帝釈天にお参りする人 真実を見抜く帝釈天ですよ 
              貴方の真実を見透かれないように 注意しませう  #・☆、△m?vg・・・
          (更に詳しくは後で)


 この四つを四悪腫と言います  ちょっと字が違うかも 
「安心して下さい」 どんな聖人君子と言えども この四つの命はあるのです
隠れているのです 潜んでいるのです 縁により出てくるのです

次に〜天まで
5)人界 → 穏やかで平静な理性の働く人間らしい かなり自由な命。本質は平(たいら)
           
6)天界 → 物心さまざまな欲望が満たされて喜びに浸る命。
        宝くじに当たったとか 有頂天になる (時間が早い)
        自由な命に見える 本質は喜び 本当の喜びとは違い 空しさが漂います
        要注意です 天は簡単に崩れ去るおそれがあります
              (更に詳しく書くから ちょっと待って 先を急ぎます)

 人界と天界は(自由)と言ったが それは 深く考えると 外から与えられた部分が多いのです
だから かなり自由 とか 自由に見える とか言ったのです
  これは本当の自由とは違います この先でご説明しますので 少々お待ち下さい

 この六個の命が出たり入ったりで一生終わる人を 
俳諧老人とか 夢遊病者とかで たとえました
 大変な介護をしている方々に 「たとえで使うな」って怒られるかもしれません すいません
 これらの人達はこの六つをぐるぐる回っているから専門用語で(六道輪廻)と言います 

 生命の破壊は地獄界
 少しばかりの欲求を満たそうと徘徊する(我)は餓鬼界
本能的に執着する心は畜生界
 勝敗のみにこだわる利己心は修羅界と言えます

 やっと最高の天界に上り詰めたと思っても 要注意です
 直ぐ崩れ去るのです 地獄まで一直線 と言う事は 珍しくありません 
それは天界の霧の中に 何かがいるんですね
・・・ エイリアンのような・・・笑い・・・魔物です・・・見た事ありませんが
「魔は天界に住む」といいます
   
     魔とは何か・・・ 命の輝きを奪う働きを言います
     4っに分類します
     陰魔 ・・・・・    説明 まってて
     煩悩魔・・・・
     天子魔・・・・
     です
 
     別に 三障があります これも悪で 人を陥(オトシイ)れる働き
     煩悩障・・・・
     業障・・・・・
     報障・・・・・  
     です
 全部あ合わせて「三障四魔」といいます 我々を不幸にする 憎い奴等です
 憎っくき「三障四魔」・・・その正体 知る必要あり 
 三障四魔 等に勝利する秘策あります 今日は飛ばします  

エイリアンが何処にいるのか 
     三界の説明が必要になりますが 簡単に言うと
     (1)欲界・・・・は六道(地獄〜人界)
     (2)色界・・・・ 欲を離れた 絶妙な色の物質によりる世界
     (3)無色界・・・最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度な精神的な世界
 ここの最高処に有頂天(うちょうてん)がある
よく 有頂天(うちょうてん)になって 失敗す人 いますね
ここで そのメカニズムがわかります
 
エイリアンはこのどこかにいます 
エイリアンは人の心の中に 簡単に入り込んでくるんですよ
専門用語で(第六天の魔王)と呼ばれています
(六欲天) 等の説明も必要になるので
       エイリアン探しは後日にします 先が進まないので 

 
 天界から落ちないようにするには六道輪廻から脱出しなければなりません
更にその上を目指すのです

次の四つを四聖と言います がむずかしいのです 
 青い空と緑の大地の話はここからなのです

7)声聞界 → 絶対の論理を聞いて (ああ なるほど)と一部分を覚った命です
         知識もあり 理性もあり 直感も働く 力もある
         先に「聞く耳をもつ事ができる人は早い」と言いましたが 
         この事なのです 貴方も我慢して もう少し聞いてください 一部を悟るかも
        (更に詳しく書くから ちょっと待って)

8)縁覚界 → 自然界など、様々な物事を縁にして みずから発見し 
          みずから創造し 部分的な覚りを得た命です
          (一瞬のひらめき インスピレーション等も) 
          みずから と言う点で 声聞界より一段と深い(歓喜に近い)
          (更に詳しくは後で  先を急ぎます)
 
 ずいぶん俳諧老人をたとえとして説明してきましたが 
「何処から来て 何処へ行くのか 何のために」が判らないとか・・・
 でも簡単です 自分の家から来て 自分の家に帰るのです
 しかし「何のために」家を出たのかが判らないのです 必ず目的があるはずです
 声聞界 縁覚界は それが分かり始めるのです

 さて ここからが「何のために」の説明です
 たとえれば 舞台に上がった役者は 例外なく それぞれの役割があります
 自分の役を演技を大胆に 見事に演じるのです
 我々の一生もこれと同じです この世と言う舞台に上がったのです 
「何のために」・・・やらねばならない役割があるはずです
前の方で 生死は演ずると言ったのは この事です
この世と言う舞台に上がった以上 舞台を降りるまで 自分らしく演じ続けるのです

 見事に演じる事ができたら 拍手喝采を浴びます
舞台から惜しまれつつ去るのです 名優と称えられます
一休みした後 当然 次の舞台が待っているのです 
 もしかしたら 自分の希望の舞台へ 希望の役柄で 
出演する事ができるかもしれません 名優ですから
 更に みずからシナリオを書き みずから主演を演じる事も
できるかもしれません 名優ですから

 それとは逆に 舞台の上で 自分の役割がわからず 演技もできず 
右往左往しているだけの俳優「大根役者)は 罵倒されます
回りに大迷惑をかけて 事故を起すかもしれません 
 途中で舞台から降ろされるかもしれません 
 もしかしたら怒られて 次の舞台は 当分無いかもしれません 失業です
やっと舞台に上がったとしても 大根役者はつまらない脇役です
 このたとえが適切かどうかは わかりませんが 分かり易くと思いまして・・ 

7)声聞界の所で(一部分を覚った命)と言いましたが 
まさに自分の役割を 舞台の袖にいる黒子に教えてもらい(これを縁といいます)
(ああ そうだったのか)と 一部を思い出した俳優です(少しましな大根役者)
 でも まだ大胆に演技するまでにはいたらない状況です 

 そして縁覚界までくると 舞台の袖にいる黒子に案内され(縁といいます) 
舞台装置を見て みずからの役を思い出し 
みずから描いたシナリオ通りに大胆に 堂々と演ずるのです 
 歓喜に近いのです 修羅界では 自我意識が少し芽生えるでしたが 
縁覚界では がぜん自我意識が大きく芽生えるのです 

 「我思うゆえに我あり」です (デカルト、ニーチェ、キルコーゲ ソクラテス)
その他多くの鉄人が 生涯をかけて 我(人間)の一部を悟るのと同じです
(人は何処から来て 何処へ行くのか 何のために)
  この声聞界 縁覚界の2つを専門用語で「二乗」と言うのです

 ここまで来れば六道輪廻)からの脱出です もはや俳諧老人ではありません
 ずーと上の方の図面の解説で (生死は演ずる) と言いましたが 
みずからの意思で 演ずる。実践。行動 が いよいよ始まるのです
 本当の歓喜(大歓喜)は直ぐそこにあると思われます


 しかし ここで大問題起こるのです
洞窟から一歩踏み出すのはいかに難しいか 思い知らされるのです
 縁覚界での悟りは 一部のみで すべてではありません
 勘違いして 悟りの本質まで到達したと思い込み 
 増上慢や 利己的な性格が頭を持ち上げてくるのです
 そして 自分の奥深くに潜んでいた たちの悪い欲望が
引きずり出されてしまうのです
 これを抑えるのは不可能に近いのです


 理性を働かせ どんなに清らかかな良心をもってしても 
 命の深い深い部分(理性 愛情 良心より更に深い層)に潜んでいて   
なすすべもなく現れるのです 
  専門用語では (元品の無明)と言います

                元品の無明については 九識論で少々触れますが
                分かり易くとなると難しい  後日
 

 すなわち 聞く耳を持たなくなるのです 
  二乗は確かに知識もあります 自分は何でも知っている と言う自負もあります
自我意識も強く 力もあるので決して自分の意見を変えないのです
その頑固さは 手に負えません
 洞窟から一歩踏み出すのはいかに難しいか 思い知らされるのです
 この一歩は すべての常識の はるか先にあるのです

 先日 これらの理論を ある程度学んだらしい方が 勝手に訪ねてきたので
とりあえず お話をお聞きしました 
 (五重の相対 腫塾脱 三証 等々 初歩的な事をベラベラと)
60〜70%正しく20%〜 どうでも良い事で 僅か2〜3%が間違っている
と感じました
 実は この僅かな狂いが 決定的な狂いなのです

 20年も前ですが 昔 若い頃 共に学び 活動していた友が尋ねてきました
当時の僅かな狂いが 今とてつもなく大きな狂いになっていました
 この僅かな狂いは何処からくるのでしょうか
元品の無明を断ち切る事ができなかったのです

 一つは 狭い範囲内での 偏見を信じてしまった
 文学 哲学 科学 芸術 歴史 政治経済 等に疎(うと)いのに
すべてを知る聖者のように振舞う 
 
 いや 分からなくてもいいのですが 何でも知っている様な思い込みは
妄信に陥り 相対して論じる事ができなくなっていました
 そして一方通行で 裏をとっていない 噂の類を鵜呑みにしている 
 口ばかり 言葉ばかりで 何故がない 引用が間違っている
 そして 決定的な一つが 違う意見を聞かない と言う事です
聞く耳を持たない と言う事です これは レベルの低い縁覚界です

 今の社会 一芸に秀でた人を称えますが それで本人が思い上がり
錯覚してしまえば レベルの低い縁覚界 以下です
 そう言う 偉そうな人 いっぱいいますね 
総体的に優れている人は本当に少ないです
 思い込みを捨て ひたすら正しく学び しがみつく思いで求め 
偽り無く我を磨き そして信を強くする
我を磨かなければ 曇ってしまいます 道を間違えるのです 
元品の無明に簡単に負けるのです
元品の無明を断ち切る利剣は信の一字です

 そして それらを見事クリアすれば その上の菩薩界に容易に登れるのです


9)・・・・菩薩界とは

 洞窟の外を見た人が 親しい友人に 
「さあ 俺を信じて 外の世界を見てみよう」
と誘っても 親しい友人であっても
「・・青い空・・? 緑の大地・・?何それ? 信じられない」と言い動かないのです
外の世界を見た人は親しい友人に
「俺がお前に 嘘をついた事が一度でもあったか 俺の言う事を信じろ」
と 繰り返し言うのです それでも親しい友人は動きません
 親しい友人は 先入観と言う色眼鏡をかけいるのです
更に 騙されたと言う 悪い噂を沢山聞いてしまったのです
 外の世界を見た人は
「お前のためだ 人生が変わるんだ こんな暗い洞窟で一生終わっていいのか」
と 強く 優しく 理を尽くし言うのです
 しかし友人は 何を聞かされても 理解しないのです 
自分の人生を否定されたと思い 反発さえするのです

 長い時間が過ぎ去ります 
 外の世界を見た人は 諦めず 外の世界を話すのです 
そのうち 友人に少し変化が現れるのです  
 友人は 考えても分からないのですが こう思ったのです
「・・あいつが こんなに熱心に言うんだから 嘘とは言えないかもしれない・・・
 とても信じられないが あいつの顔を立ててやろう・・・
 あいつになら騙されてもいいか・・・ 
少し勇気を出して外の世界を見てもいいかも・・・」

勇気とは 強がる事ではありません
一歩踏み出す事なのです

 友人は やっと重い腰を上げたのです「・・お前を信じてみよう・・・」
そうです 青い空と緑の大地 を信じたのではありません
友人を信じたのです


 信は分からない事が分かるようになる それは信から知恵が沸くからです
どんなに多くの知識を有していても 知恵がなければ その知識は生かされません
 知恵は信から生まれるのです その逆の 不信は 簡単な事でも分からないので

 洞窟の外へ一歩出た友人は 真実を見て 歓喜したのです
一瞬で外の世界を学んだのです
 歓喜した友人は言いました
「ありがとう でも・・何故 もっと早く教えてくれなかったんだ・・・」
この場合 友人が(縁)と言う事になるのです
縁について この先で触れます

 外の世界へ一歩踏み出た友人は決意します
「・・・この外の世界を知らない人達に 今度は私が教えなければ・・」
 そしてその友人は歓喜したまま 再び暗い洞窟に戻るのです
 今度は 外の世界を知らない洞窟の多くの人達に 
みずから学び歓喜した 外の世界を語るのです
カントは
  「人間にとって目的であるとともに 義務であるものは
  自己自身の完全性と他人の幸福である」 と言いました

 信ずる 行動 学ぶ ができたのです すなわち大歓喜です
これを「悟り」と言うのです

 上の方の表で 信ずる 演ずる 学ぶ ができれば歓喜になると示しました
この事です (信・行・学)です
信じてから 行動です そして学んだのです
 先に学ぶのではありません 順番を間違えないようにしましょう
学べば更に信じる心は強固になり 知恵が沸き更に果敢な行動へと繋がるのです

 4Kテレビを見るのに 電磁回路 電子回路を勉強して納得してから 
スイッチを入れる人はいないと思いますが それをやれば何年もかかります
取り扱い説明書を 信じて スイッチを入れると言う行動に移るのが普通なのです

信そして行そして学です

9)の菩薩界とは この人の事を指しているのです 
 当然 非難されます バカにされます 誰も話を聞きません 
しかし真実を語らないわけにはいかないのです
ここで見事に 俳諧老人ではなくなるのです
(何のため)を悟った瞬間です

 菩薩の顔は優しいのです 真実の世界を見た者にしか分からない
歓喜の命があるからです
 
 人々を救済しようとする 慈悲の命が勇気の行動となるのです
暗い洞窟にいる この人達を救うのは自分だと決め 使命感が湧くのです
 あえて 暗い洞窟で 皆と一緒に生活をするのです
 この人は 周囲の評価 状況に一喜一憂する事はありません
地位や立場 経済力 容姿等で一喜一憂する事もありません
人を恨む事も憎む事もありません 関心を得ようと策に走る事もありません

少々 別の観点から言うと
 自分の特技を活かし 知恵を働かせ人々を救う人を(文殊菩薩)
慈悲の力で救う(弥勒菩薩)音楽の力で(妙音菩薩) 医療で(薬王菩薩)
 学理で(普賢菩薩) 政治経済で(観音菩薩)
菩薩の命は歓喜なのです
 前の表で すべて歓喜に至る事を記しましたが 
この事なのです
ちなみに 菩薩の数は 数えきれません 


 座禅を組んで じっとしている菩薩などいません
滝に打たれて 修行している菩薩などいません
のんきに 札所参りなどしている菩薩などいません
冠婚葬祭に明け暮れる 菩薩などいません
時を最大に生かしてこそ 命は輝くのです

 菩薩は 多くの人の中に みずから出向き 言葉巧みに語るのです
語らなければ 何も始まらないのです
人を救うのも言です 邪悪を砕くのも言です 時代を動かすのも言です
 人々の苦しみを 我が苦しみとして 語るのです慈悲の表れです 
 慈とは いつくしむ 悲とは 共に悲しむと言う事です
慈悲とは励ましの事です
 自分の仕事をしながら 家族を養いながら 
そしてみずからの病と闘う事もあるのです


 飢えた人に食を恵んであげるのは 小さな善です
飢えた人に仕事を教え みずから食を得る方法を教えるのは  中の善です
正しい思想を教え 人生の転換を促し 蘇生させるのは 大きな善です 
 その影響は他にも及ぼすからです 菩薩はこれをやっているのです
そして 世の不正に怒り 誰よりも行動しています

 当然大功徳を受けるのです 
 功徳の功とは悪を滅する事で 徳とは善を生ずる事を言います
悪と戦う事の重要性を説き 悪と戦わなければ 功徳はないのです

 ありがたい仏像を いくら拝んでも 功徳はありません
どんな荒行をやって修行しても 功徳はありません
結果だけは出ないのです この世は科学ですから
 この地を天国にするも地獄にするも そこに住む人で決まるのです
極楽(理想の国)も地獄も遠い所のあるのではありません
我が家もそこに住む人により 修羅場ともなり 安息の場にもなるのです
道理です
 この世に数ある思想 哲学 宗教を 正しく見極める基準の一つに
人間を強くするのか 弱くするのか
人間を善くするのか 悪くするのか
人間を賢くするのか 愚かにするのか
があります
人間を 弱く 悪く 愚かにする思想 哲学 宗教のなんと多い事か

アインシュタインは科学なき宗教を批判しました
しかし 宗教なき科学も批判しました
彼は科学にも限界がある事を知ったのです
この世には科学では説明できない事があります
 残念ながら 日本人は科学と宗教を分けています
同じなのです 科学と宗教は一体なのです

少々長い引用ですが
加來道雄(理論物理学者日系3世)科学者は偏見をもつべきでなない
信じられない現象も受け入れなくてななりません
唯物論で人間を理解し、唯脳論で解決策を探すだけの科学では、
たとえ国家を挙げた研究でも限界にぶつかってしまうだろう。科学の未来は、
宗教と融合を目指す中に開かれるはずだ
と言っています  九識(くしき)論で更に詳しくと思っています

 日本人の殆どは無宗教となっているように見えます
それは 指導すべき聖職者や 僧侶が特権階級のようにふるまい 
宗教を独占し ビジネスにし 堕落したのが原因だと思います

 しかし日本人の多くは
社会の秩序を信じ 道理を信じ 善意を信じ 行動しています
人種差別をしない マナーを守る 親切
これは日本人の誇れる宗教に見えるのです
これは仏教の思想です
日本人は長い間 養われてきた仏教の考えが 
現代になっても まだ死んでいなかった と言う事です

聞いた話ですが 「アメりカ等のキリスト教社会の若者に
宗教別れが進んでいる」 との事です
既存の宗教への矛盾 弊害 等に気が付きはじめたのかもしれません
先ほど(科学と宗教は一体)と言ったが 論理的な説明が不完全でも
最後は結果を見るしかないのではないでしょうか


 しかし 人間は宗教なしでは生きられないのです
 トルストイは人間は宗教なしでは生きられない理由を
第一に 宗教のみが善悪の決定を与えるからだ
第二に 宗教なしでは人間は自分のしていることが善いか悪いかを
     知ることが決してできないからである
第三に ただ宗教のみが利己主義をほろぼすからである
第四に 宗教のみが死の恐怖を打ち消すからである
第五に 宗教のみが人間に生の意義を与えるからである
第六に 宗教のみが人間の平等を樹立するからである
と言っています
キリスト教には当てはまらないかもしれませんが


 話がそれてしまいました 本題にもどります
 究極の菩薩 現代の菩薩を (四菩薩)と言います 
名前を@上行(じょうぎょう)菩薩・A無辺行菩薩・B浄行菩薩・
C安立行(あんりゅうぎょう)菩薩といいます。

 すべて(行)が付きます 実社会の中で行動するのです 
衆生を幸福へ平和へと導く(リーダー)の事です 
相関性を認識する 知恵
差異を尊重する  勇気
(異なる物同士が組み合わさるのを「和」と言い 新しい物を生み出します)
人々と同苦し連帯できる 慈悲を持っています
地涌の菩薩と言います
 この地涌の菩薩は 地涌とあるとおり大地から涌いて出たのです 
 大地とは 究極 深理 基本 極地 大歓喜 等の事です
菩薩の人数は 数えきれません


 そして この社会で活躍する事を 願っていたのです 待ち望んでいたのです
しかも 最も汚れた時代に 苦悩する人々のど真ん中に 
不動の覚悟と誓いを堅持し 出現する事を願っていたのです
願って 願って やっと願いがかなったのですi
 そして ついに その時がやって来ました
 
地涌の菩薩は喜び勇んで 小躍りしながら 出現したのです
大地から涌いて出たのです だから「地涌」と言うのです
 でも 最初っから自分が地涌の菩薩であるとに
気が付かないのが普通です
しかし(縁)に触れ一瞬で 思い出すのです
(我 地涌の菩薩なり)と 使命も 誓いも 覚悟も


 ・・・憧れの理想卿 最終目的地・・・・
それを思い出すのです 自分そこに居たのではないか
自分はそこからここへ来たのではないか
 目的地だと信じていたが 実は出発地だったのではないか
透徹した文学者ヘルマンヘッセは言う
「君が求めている光は 君自身の中に宿っている」 と

 はっきりと思い出した 自分の住所は「輝く太陽の 青い空と緑の大地」だ
そこから来たのだ 暗い 冷たい 偏見と苦悩渦巻く洞窟に
 それも自ら願い 誓い 勇んでやってきたのではないか
一瞬の出来事 Uターン現象 命の革命 「自然に仏界に至る」の核心
もう迷いはない 恐れるものはない 使命を果たして 堂々の凱旋だ
ゲーテは
幸福とは 「人生における自分の使命を 喜んで果たし行く中にある」
と言いました
まさに 大歓喜の人生の始まりです

 そして やがて 過去 現在 未来 (三世)を悟るのです
 生死の二法(妙) 因果の理法(法)を悟るのです
生命の究極の一法を 宇宙の根本の法則を 我即宇宙 を体得するのです
永遠の生命を 清浄そのものの、何ものにも汚されない法則を悟るのです
生老病死がそのまま喜びになるのです 歓喜の中の大歓喜に至るのです
成住壊空(じょうじゅうえくう)の空を悟るのです
 九識心王真如の都(九識論で説明)に至るのです
 最後の十番目の仏と言うのはこの人の事なのです

仏の異名に 道を知り 道を開き 道を説く とあります

 死んだ人を仏とは言いません 大きな間違いです 勘違いです
これは江戸時代 寺請制度を利用した 坊主が
残された遺族を喜ばせ 金を取るための お世辞です
死んだ人が仏になどなりません 

仏は菩薩の戦い続ける命の事です
 仏像を見れば分かりますが 仏は皆 蓮の花の上にいるのです 
原因と結果が同時に現れる事を象徴しているのです
 蓮の花は 咲くと言う原因と同時に 結果と言う種ができるからです
すなわち 奇跡とか 偶然とか 例外とかは絶対ないのです

 わかりやすく言うと 女を泣かせば 今度は女に泣かされる
人のものを盗むと 貧乏になる 人を騙(だま)せば 人に騙される
人を殺せば 今度は殺される
 物騒な例え話で申し訳ありませんが 
100人殺せば 100回殺される
と言う事です 因果応報 です

宿命(運命)は 原因による結果 であるならば 変えようがありません
原因と結果は科学ですから 
 しかし それでは 何もかも決まっているから 希望も努力も意味がないのでは??
と考えてしまいがちですが そこが問題です

この世は因果応報でも そこに縁があれば 結果は変えられるのです
落とした卵は必ず割れますが 下にクッションを置くと割れません
そう 其のクッションこそ縁なのです
暗い洞窟から 外の世界にさそってくれた友人こそ 縁なのです
舞台で 自分の役が分からない袖にいる黒子が アドバイスを出す それが縁なのです

古来より その人の運命の捉え方に二つの考えがありました

一つが 宿命論
どんなに努力しても運命は変わらない
自分の境遇をうけいれるしかない
あきらめを植えつける   と言う考えで
結局 希望を奪う考えなのです

もう一つが 偶然論
どんな行いをしようとも 結果には関係ない
人生を無軌道にし 人々を傷つけても 意に介さない
これも 問題の考え方です

しかし 三つ目の考えがあります
因が同じでも そこにどのような縁が結びつくかにより
一人一人に現れる果は異なってくる
と言う考えです これは仏教の考えです

その仏の台座には必ず蓮の花があります
 この 蓮の花は どんなに汚れた社会でも 
その汚れに決して染まる事がないと言う象徴なのです
 更に 社会の泥沼が深ければ深いほど 
蓮の花は大きく咲くのです
 仏の慈悲は キリスト教の(愛)とか 孔子の(仁)とは違います
慈悲の非は「ともに悲しむ」と言う意味があります
 仏は多くの人々が生活している場で 苦楽を共に一緒にいるのです

 その居住する所は大地です 天上界でもなければ 
西の彼方の極楽でもありません 
仏は 意(こころ)惜しまず 身を惜しまず 口を惜しまず とあります
仏は この悪因悪果を断ち切る 利剣を 妙薬を 羅針盤を教えます
 自分自身が花を咲かせるのではなく 種をまいて 一生終わるのです

 山奥で修行している仏はいません 
赤や紫の袈裟を着た ど派手な仏はいません 
自分の幸せのみ 願っている仏はいません
座禅を組んで 黙っている仏はいません
豪邸に住んで 贅沢な生活をしている仏はいません
政治経済に無関心な仏はいません

 使命感 責任感は行動に表れるのです 
誰よりも語り 誰よりも平和のための活動をするのです
精神の土壌を耕し 豊かな幸の花園にします
喪失した精神性は 人間を野獣にします 

 無理解のために 仏は必ず大難を受けるのです 
嫉妬のゆえに 誰よりも多くの批判を受けるのです
それが悪世において 正しいと言う証明なのです
 多くの人々に 人間としての模範的な生き方を教えるのです
 私達の故郷は地球 国籍は世界 人種は人間であると 
地球民族主義を掲げ
世界的規模で 万年の先を見据えて
 ガンジーは 偉大な運動が経る五段階
「無関心 嘲笑 非難 抑圧 を突き抜けて 尊敬の段階に入る」
と言いました
 ガンジーの言う「尊敬の段階に入る」
のは200年先でしょう

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 ここまでが生命の10個の個別化(グループ別)の原理です
十界論 と言います
 これは例外なく 誰でも持っている命なのです
では我々は どうすれば 最高の仏の命を表す(湧現する)事ができるか
その鍵は「信ずる」の一点なのです

 駆け足で書いたので大雑把です 更に説明不足はご承知ください
叉 変な たとえが多くて 正確さに少々(かなり)欠ける所もありますので よろしく
又 書き足し あるいは削除しながら 更に分かり易くと思っています
 

次に(十界具)論です 

 先の十界論は 個別に切り離して解いた理論です
一瞬を無理に止めて解き明かしたのです
生命の1コマ 1コマを 分かり易くするためです
そして 少しずつ動かしてみたのです 分解写真のようにです

 でも実際の生命は 一瞬たりとも止まることなく 動き続けているのです
これが ここからお話しする 十界互具論です 生命の流れを立体的に
二次元 三次元的に 掌握するための方程式です

更に生命の解明には 先ほどの個別化(十界論)の原理 の他に
立体的に流れる(十界互具論)ーーーー   思索中 
個性化の原理を表す(十如是論)ーーーー 結構 分かり易い
深層を解明した九識(くしき)論  ーーーーー  こっちを先に書く
一瞬の生命に三千の様相を呈する(一念三千の法門)
人間の存在を把握する 五陰(ゴオン)世界 色受想業認
その他があります

いずれも 現代の科学が まだ 追いついていない  いや 創造すらできない
部分が かなりあります



前後しながら スローペース
 
 

仕事をしながら 生活に悪戦苦闘しながらなので
スローペース
あしからず




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九識(くしき)論 

   先ずビクトルユゴーの言葉を引用したい 
        中略・・・ 空よりも大きな眺めがある それは魂の内部である
   又 アレキンスカレル(生理学者)ノーベル賞受賞) の言葉を引用したい
        中略・・・我々の内部世界は茫漠たる未踏の地である

   これから その未踏の地へご案内しようと思います 

 生命活動は、五識(眼・耳・鼻・舌・身体)と六識(意識)の働きで営まれています。
五識とは 見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れるの五感を意味します。

第六識は意識の事で、五識からの情報に反応し、推量して働く理性「知る心」「判断する心」で、
    左脳中心の私たちの表層意識
    行動と状態には個々差異が生じます  第六感 等言いますね

第七識は末那識(まなしき)末那(manas)とは「思量するもの」意味で{思量識」とも言う「自我意識」のこと
    六識の発生場所を第七識として定義 おもに左脳を管理していて、
    一般的に言われている「潜在意識」に該当するものです。
    意識のデータバンクとも言われていて、この領域を支配しているので虚空蔵とも言います
    もともと潜在意識はオーストリアの精神分析の創始者であるフロイトが解明したものです。
    だから第七識まではフロイトの学説でおおむね説明できます(夢判断)等で有名です、
               ・・・後日又

第八識の阿頼耶識 「宿業」「貯蔵する」のことです「激しい川の流れ」に例えられるほどの巨大な力です
     第八識になるとフロイトの説明を超えてしまうのです
    ユング(スイスの精神医学者)の「集合無意識」普遍的無意識は第八識の一部分を解明したと言えます
         
    違った個性、認識の相違 右脳と通じているようです
    善業と悪業に分類 善業の顕在化は慈悲や知恵として働き「楽」の境涯をもたらす「善因楽果」
    悪業は、三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)などの煩悩となって「苦」の境涯を引き起こします「悪因苦果」
        
    もう少しご説明します
      ユングの「集合的無意識」。
      これは、私たちの無意識の深層に存在するもので共有していると言うのです、
      国や民族を超えて人類全体に共通して存在するものだと考えられています。
      今 この理論を実証するため 様々な実験が行われています
       そして 理論ではなく 現実になりつつあります
            
      これを人間の持つ情報機関である五感以外に退化した 隠れた感覚器官あるのではないか
      と言う実験です
      遠隔感応(テレパシー)予知能力 透視能力等です どの実験も その存在が明らかになっています
            
      別に地球意識の有無の実験等でも(ロジャーネルソン地球的意識プロジェクト)
      科学では説明不能な結果がでています
      その不可思議な結果を無理に倫理的に説明しようとする学者もいますが 我々にはチンプン
      結果を受け入れるしかないのです
      九識(くしき)論からすると第七識 第八識の一部が明らかになりつつある と思われます
      九識(くしき)論は地球レベルを超え宇宙にまで広がるのです
           
      例 簡単な実験
      誰でも 人の視線を感じる事があります それを実験した科学者(多数)がいます
      その人を強くを思い 背中に視線を送ると 確率は50パ−セントを超えるのです
      何度繰り返してもです 同じように実験の結果 透視能力も予知能力もあるのです 
      人の脳と脳はつながっているのです 影響を及ぼし続けているのです
      思考が空間を伝わる
      科学的に説明がつかないのです その通信手段がメカニズムが現在の科学では
      ありえないのです
      (だからといってインチキ霊能者や預言者にだまされないで)
          
      分かり易い一例を
      イワシの群れは見事です(その他多くの群れを成す魚 鳥 動物もいます) 
      集団が大きな生き物のように一斉に泳ぐのです
      イワシの群れは指揮官も司令官もいません
      では何故 集団が一つのように動くのでしょうか
      多くの学者の研究で様々な仮説を立てて説明していますが
      決定的な説はありません 今だ謎が多いのです

      すべてのイワシが同時に情報をやりとりし、コミュニケーションを取り、
      瞬時に決断を下しているのです
      意識が一つになっているのです
      これは 集団の場(フィールド)は意識を共有し まとめようとする力です
      形態形成場とも言われています

      集団’(フィールド)では 理想への方向性を示します
      人類と言う集団も同じではないでしょうか
 

      人類も同一の方向に動いている(イワシと同じ??)・・・・私の話は勝手に広がるので あしからず 
             西洋哲学の起源はギリシャにあるとされているが、仏教 ギリシャ哲学とも「自我」「存在」「生命」
             に関して共通の関心を持っています
             ソクラテスの「汝自身を知れ」は釈迦の「汝自身を省み訪ねるが良い」と同じ意味です

             仏教 キリスト教が発展した要因に共通する3点をあげます
             〇原始的宗教の呪術的迷信を打破しようとした
             〇既成宗教の祭祀体系を否定した、これは バラモンとパリサイ人を盲人に譬え
              その否定の仕方まで同じです
             〇民族的に偏狭な観念を克服した、仏教は四姓平等を説き、イエスもユダの民族主義を乗り越えました

             もし 直接的なつながりが無いとしても 本当に深く人間生命を探求していけば、角度は違っても
             やがて、同一の方向に到達すると言う事が 考えられないでしょうか(イワシと同じ??)
             仏教にしてもキリスト教にしても 世界宗教に発展した理由に、普遍的な心理を含むものがあり、
             人間の捉え方にしても、事物の本質の掘り下げ方にしても、万人が納得いくものがあった、と言えます
             もし 人類文明にこの二つの宗教が無かったら、人間の知恵はいかにも底の浅いものに
             なっていただろうと思います

               イギリスではオリゲネースがユゼキエル書註解において
               「それ(キリスト教)への傾向をもっていた」と記されていたと書かれています
               中国の孔子の存在も(仏教へのつながりは無いが)仏教への傾向をもっていた事は確かです
               儒教の「仁愛」「大同」墨子の「兼愛」「非攻」又道教等もです(イワシと同じ??)

      この意識の共有はイワシに限らず すべて(宇宙にも 島宇宙)に当てはめられます
      が まだまだ分からない事だらけです
      しかし 一瞬で離れた相手にどのような手段で??
 
      ありのままを受け入れるしかないのです
      明らかに人間にはない感覚器官があるように思われます

      有力な結論を申し上げます
      イワシの脳と脳はつながっているのです
      すなわち群れは一つの意思を共有して動くのです
     
                                 私の勝手な話
                                 ソクラテス イエス 釈迦 人類が切望したから出現したのではないか
                                 ヤスパース(ドイツの哲学者)が 同じような事をいっています
                                 引用が長くなるので カットしますが
                                 世界大戦 未曾有の殺戮 何を切望し死んでいったのか 
                                 人類共通の一つの意思(集団的意識)(地球意識)
                                 それは 悲惨と言う言葉をこの世から削除する事ではないでしょうか
                                 そして 人類が切望する その方向へ向かっていると信じたいのです



     さてさて 人類の生命科学は 心理学者は 3000年の時を経て この第八識の入り口までやっとたどり着いたのです
     以下の第九識は フロイトやユングが創造さえできなかった未知の領域なのです
     仏教で明かされる宇宙の姿は 十方(四方八方に上下)に広がる小千世界 中千世界 大千世界は
     現在の天文学と基本は同じで(太陽系 銀河系 島宇宙) 創造される星の数は 現在の天文学を超えているのです 倶舎論等にもあります
     仏教で使われる  五百塵点功とは 現在観測される宇宙を遥かに飛び越えています


                                 
                                 私の勝手な話              
                                 華厳経等の研究に没頭する学者先生の著書をチラ見しました
                                 その壮大な宇宙観 一生かかっても研究し尽くす事はないでしょう
                                 何経に限らず 迷路に迷い込むのではないでしょうか
                                 西洋哲学 神学 論語等とは 比べものにならないほ程 奥が深いからです
       mm                          学ぶなら 迷路に迷わない羅針盤を手に入れてからにしましょう
                                 
                                 昔 ある学生が超大な仏教書の中から 超難しい書を学ぶと言うのです            
                                 私は「やめなさい」と言って羅針盤の話をしましたが 
                                 やる気満々の学生に対しては説得力がありませんでした


第九識は阿摩羅識(あまらしき)といい。意訳すると根本淨識(こんぽんじょうしき)とあります、
         この第九識が一番大事なのですが説明が容易ではないのです 
         宇宙の根本の法則とでも言えます、
         清浄そのものの、何ものにも汚されない法則、生命そのもので「九識心王真如の都」と言います
         「無量義(森羅万象)は一法より生ず」の究極の一法で 妙法とも言います 
         理(理論)の一念三千に対して事(事実)の一念三千です   十界論の最後の仏界の命です
 
            ここは 我見 偏見を交えず・・・・後日に続く  

 







  九識(くしき)論 簡単過ぎますかね

  ちょっと待って  難しい専門用語を羅列するのは簡単なんですが
  分かり易くとなると 難しい 本意を逸脱する恐れがあるんですね
 
又 宗派により 解釈の相違があります 又 どの(教)から いつの時代の誰の(釈)(論)で 
研究者の説が違ってきます それらを調べつくす事は不可能だと思われます
それらを議論していたら はてしない議論で終わる気がします






                   





















 














                    























十界論・・・生命の個別化の原理


十界互具・・・(生を立体的に の次は
十如是論・・・(生命の個性化の原理とでもいえますか)
九識論・・・(生命の深層の実体)

一念三千の世界






                      















































 (大歓喜) (我即宇宙) (永遠の生命)(過去・現在・未来)(仏)
これ 皆同じです































 釈迦(仏)は 究極の一法を説くに当り 「今まで解き明かした法は 真実ではない」 
と言うのです(四十余年未顕真実「) 
すなわち いままでのは 方便(うそ)で 「これから説く法が 真実の法である」 と言うのです
そして 
「無量に展開する すべての物事は(森羅万象) 突き詰めれば 一つの法則からなりたっている」
と言うのです
 釈迦の弟子達は おそらく 耳をそばだて わくわくしながら 聞き入ったはずです
そして たくさんの非(あらず)が羅列されたのです
 様々な解釈がありますが すなわち 全てを否定し去った後に その法はある
すべての常識を 先入観を捨て去ら無ければ その法は解らない
と言う事なのではないでしょうか

 釈迦の究極の法は法華経です 前半の肝心は方便品第二です
そこに 舎利佛(シャリホツ)と言う名が沢山出てきます
この舎利佛(シャリホツ)とは 釈迦の弟子の中で一番頭がよく 知恵第一 と呼ばれていました
 この究極の法を 頭の良い この舎利佛を中心に解いているのです
しかし この舎利佛ですら 理解不能なのです
 そのうち 5000人の弟子が席を立ちます (釈迦の言う事は信用できない)
と言って 釈迦の元を去ります (五千の上慢)と言います
舎利佛は 理解不能ですが (何かある)と思い 留まったのです
 法華経とは究極の一法の説明書なのです 
釈迦一代の八万法蔵と言える経蔵も この究極の一法の説明書なのです
例えるならば 薬の効能書きのようなものです
効能書きをいくら読んで理解しても 薬そのもを服用しなければ何にもなりません

 貴方にとって 最も大事なものは・・・・・
それが解かれているのです
後半の肝心は十六品です その中の 更に肝心なところは
(自)から始まり(身)で終わるのです
すなわち自身 貴方にとって 最も大事な貴方自身について解かれているのです
法華経とは究極の一法とは 一個の生命を解かれているのです
一個の生命の大きさ 尊さ 可能性 過去と未来
しかしあくまでも理論です 理でなく 事実として解った時を悟りと言うのです
理論と事実では天地の差があります
薬の効能書きを理解した時ではありません
薬そのもを服用した時 悟りと言うのです

 釈迦の弟子の中で 一番頭の悪い修利槃特(しゅりはんどく)が悟りを開いたのです
誰も信用しませんでした しかし 彼の説法を聞いた多くの人達は
驚きました その姿も声も行動も 革命的に代わり 
その説法は まさに悟りを開いた者にしか解らない内容だったのです
 多くの釈迦の弟子達は自責の念にかられました
そして次々に悟りを開いていったのです

 頭の良い舎利佛は 皆に遅ればせながら やっと悟りを開きました
 釈迦は (かの舎利佛すら なおもってかくの如し
おのが知分に非ず)と言い(以信代慧)の原理を示しました
どんな知識も経験も頭脳も 究極の一法を悟るには 信が無ければ役に立たない事を示したのです
釈迦の元を去った 五千の上慢のように 逆に自分の知識が邪魔をして 疑いを起してしまうのです

 中国の天台大師は 釈迦の法華経の究極の一法を(理の一念三千)と解きました
一瞬の生命に三千の様相を呈すると言う事です 
何故 理(理論)といったのでしょうか 事(事実)とは言わなかったのでしょうか

 日本の伝教大師(最澄)は 法華経の迹門の戒壇堂として比叡山延暦寺を建立しました
迹とは本体に対する言葉で影と言う意味があります
何故 本体でなく 迹(影)なのでしょうか 

 それは 釈迦の法華経自体が 理であり 迹(影)だからです
では 本体は 事実は 何処に隠されているのでしょうか 
それは 人間の言葉をいかに駆使して語っても語り尽くす事ができないのです 
 
 前半の肝心は方便品第二と言いましたが 方便品の方便とは(嘘も方便)の方便です
すなわち真実ではありませんと言う意味なのです
これは 人間の言葉をいかに駆使して語っても やはり嘘になってしまうからです
真実だけれども 嘘です と言う事なのです
これ程までに 本体は事実は創造を超えているため説明できないのです
 





 先日 母が亡くなりました
 突然入院し 危篤状態との事で 子供達が集合
しかし病院に着くと 持ち直し 母は子供達と会話をしました
 母は声が出ず うなずくだけでしたが うれしそうな顔でした
 2日後 急変し突然亡くなりました  死に目には会えませんでした
駆けつけた姉が 母を見て「笑ってる」と言いました
使命を果たした 穏やかな相

身内だけの葬儀を行いました 親戚 兄弟 子供 孫達で 他人は居ません
 僧侶も呼ばず 戒名など付けず 息子の私が中心になり 
法華経を読み 皆で題目を唱えました

 次の日から 母の友人知人が ひっきりなしに 我が家に来ます
生前の母の部屋に飾った 祭壇に線香を上げに来ます
お香典は一切受け取りません
部屋中 大きく伸ばしたスナップ写真を飾り とてもにぎやかです

息子に お父さんの時も「こうしろ」と言いました 出きるかな?

今思い出した
20年前に亡くなった父が言っていた
「お母さんは泣いた事がない」  と
 でも私は 母は特別強いとは思えない 臆病に見える時もあるからだ
しかし 今になって分かった 
今と違い 戦前戦後の波乱の社会
予期せぬ苦難の壁 波乱の人生 
その現実に母は (負けなかった) と言う事だ


「強くなれ」と 誰にでも言える
しかし 「私はそんなに強くない」 と言う人には酷である
  大事な事は(負けない)事だ
負けないために 何が必要か
羅針盤です







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