- おもろいはなし -  


死とは

現代文明は「死を忘れた文明」と言われるのです
世界の抱える大きな問題も、この死と言う問題を
避け、無視、タブー視する所に、解決の道が開かれないのです

我々は一つの例外もなく死刑の判決の下った死刑囚なのです
何時、それが施行されるか分からないだけなのです

人間は、真っ先に他を差し置いて、この
死の問題を解決しなくてはなりません

トインビーは  生命は、はたして死後も存続するのか。また
、肉体が無機物の世界へと還元されてしまった後、精神はどこへ行くのか。
―― 要するに、これらの疑問は、空間とか時間の基準からは答えられず
“空” ないし “永遠” の概念によって初めて答えられるのだと信じます、と言う
更にトインビーは
、「“宇宙の背後にある究極の精神的実在” に帰ることが死である」と述べています
更に
「生命は永久であり、永遠の生命であるとは、人々のよく言うところであるが、
この考え方には、いろいろの種類がある」 と述べられ、2~3の例題をあげられて、
それらはみな不正確な生命観であるので、こんな観念論的な永遠は私は用いられない
と述べています

   キリスト教   最期の審判で、魂が 天国、地獄・辺獄・・・  詳しくはここ 
   イスラム教   最期の審判で、現世の時と同じ肉体のままで(火葬はしない)天国または地獄・・・詳しくはここ
   ヒンズー教  火とともに天に昇って、神か祖霊の道を進む、死後が本当の世界・・・詳しくはここ
   儒教 道教  天命に従う
   神道      神になる
   量子論    情報が宇宙にちらばる
   仏教     何度でも生まれ変わる

①仏法では死をどう考えるか

②キリスト教の死の世界

③イスラーム教の来世観

④ヒンズー教の死の考え



初めに
①仏法では死をどう考えるか、


死後のわれわれの生命の存在の仕方を “空”
という概念でとらえています。
“空” というのは、現象としては現われなくとも、
厳然と実在する状態のことをいいます。
実在するといっても、それは目には見えませんから、
“無” と変わらないともいえましょう。
しかし、実在する以上、
縁にふれて目に見える現象として現われるのです。
そうなると、“無” とはいえません。 つまり、
“有,と“無”という二つの概念だけでは表現できない状態です。
 結局、仏教の教えによれば、生命の本質は “生”
すなわち “有” と “死” すなわち “無” とを現じながら、
永遠に存続していく超時間的実在であるということができます。


大乗仏教においては
、“生死不二” といって、生と死という時間・空間次元の現象は、
時・空を超えた実在である生命の、二つの異なった顕われ方である
と説いています。
個々の生命体は、生命が顕在化した状態であり、死とはその生命が
“冥伏” した状態です。 冥伏とは無に帰することではありません。
 さきほどから私が提起してきた “空” の概念は、
目には見えなくとも厳然と実在する、
有無のいずれか一方に決めることのできない概念です。
これに対して、現実にさまざまな個別の姿をとって現れてくる姿を
“仮(け)” と名づけています。 身心統一体としての生とは、
この“仮,の姿であり、しかもそのなかに“空”をはらんでいます。
死後の生命は “空” として実在しながら、そのなかに
“仮” の傾向性、方向性をはらんでいます。
そして、この “空” と “仮” を貫く生命の本質を
“中” と呼んでいます。
あるときは顕在、あるときは冥伏という姿をとりつつも、
無限に持続していく生命の本質ということです。
 この持続していく生命の本質とは、現代の哲学用語でいえば、
最も根本的な意味での “自我” という表現に通ずるものです。
さらに仏法では、この “空” と “仮” と “中” は
円融一体のものであって、それらを全体として統一的に
把握しなければならないと説いています。

少々深く・・・

 寿量品の自我偈には 「方便現涅槃」 とあり、死は一つの方便であると説かれている。
たとえてみれば、眠るということは、起きて活動するという人間本来の目的からみれば、
たんなる方便である。
人間が活動するという面からみるならば、眠る必要はないのであるが、
眠らないと疲労は取れないし、また、はつらつたる働きもできないのである。
そのように、人も老人になったり、病気になって、局部が破壊したりした場合において、
どうしても死という方便において、若さを取り返す以外にない。
 
 『観心本尊抄』 では、十界について、次のようにのべられている。
 「数(しばし)ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋(いか)り或時は平(たいら)に
或時は貪(むさぼ)り現じ或時は癡(おろか)現じ或時は謟曲(てんごく)なり、
瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・謟曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり
(乃至) 世間の無常は眼前に有り豈(あに)人界に二乗界無からんや、
無顧(むこ)の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し」云云。(241P) 

 われわれの日常生活における心の状態を、よくよく思索するならば、瞬間瞬間に、
一念一念と起きては消え、起きては消えているのが、貪りとか、よろこびとか怒りである。
そして、二つの念が一時に起こることは、けっしてありえないのである。

 このように、本尊抄の十界の文を引かれて、我われの日常生活上に起きる
種々の生命情況を、仏法の 「空観」 をもって、次のように解かりやすく説明されています。

 われわれの心の働きをみるに、よろこんだとしても、そのよろこびは時間が立つと消えてなくなる。
そのよろこびは霊魂のようなものが、どこかへいってしまったわけではないが、
心のどこかへとけこんで、どこをさがしてもないのである。

 しかるに、何時間か何日間かの後、また同じよろこびが起こるのである。また、
あることによって悲しんだとする。何時間か何日か過ぎて、そのことを思い出して、
また同じ悲しみが生ずることがある。
人はよく悲しみをあらたにしたというけれど、前の悲しみと、あとの悲しみと、りっぱな連続があって、
その中間はどこにもないのである。

 同じような現象が、われわれ日常の眠りの場合にある。
眠っている間は、心はどこにもない。しかるに、目をさますやいなや心は活動する。
眠った場合には心がなくて、起きている場合には心がある。
あるのがほんとうか、ないのがほんとうか、あるといえばないし、ないとすれば、あらわれてくる。

 このように、有無を論ずることができないとする考え方が、これを空観とも妙ともいうのである。
この小宇宙であるわれわれの肉体から、心とか、心の働きとかいうものを思索して
これを仏法の哲学の教えを受けて、真実の生命の連続の有無を結論するのである。

 前にものべたように、宇宙は即生命であるゆえに、われわれが死んだとする。
死んだ生命は、ちょうど悲しみと悲しみの間に何もなかったように、よろこびと、よろこびの間に、
よろこびがどこにもなかったように、眠っている間、その心がどこにもないように、
死後の生命は宇宙の大生命にとけこんで、どこをさがしてもないのである。
霊魂というものがあって、フワフワ飛んでいるものではない。
大自然のなかに溶け込んだとしても、けっして安息しているとは限らないのである。
あたかも、眠りが安息であると言いきれないのと同じである。
眠っている間、安息している人もあれば、苦しい夢にうなされている人もあれば、
浅い眠りになやんでいる人もあると同じである。

 この死後の大生命にとけこんだすがたは、経文に目をさらし、仏法の極意を胸に蔵するならば
、自然に会得するであろう。
この死後の生命が、なにかの縁にふれて、われわれの目に写る生命活動となってあらわれてくる。
ちょうど、目をさましたときに、きのうの心の活動状態を、いまもまた、そのあとを追って活動するように
、新しい生命は、過去の生命の業因をそのまま受けて、この世の果報として生きつづけなければならない。

 かくのごとく、寝ては起き、起きては寝るがごとく、生きては死に、死んでは生き、永遠の生命を保持している。
その生と生の間の時間は、人おのおの、ことなっているのであるから、この世で夫婦・親子というのも、
永久の親子・夫婦ではありえない。

戸田先生はよく 「われわれの生命は、死後、大宇宙に溶けこむんだ」 と言われていた。
霊魂ではなく、色心不二の生命そのものが大宇宙に帰っていく。 
 大宇宙そのものが、一つの大生命です。
大生命の海です。あらゆるものを育み、あらゆるものを生かし、働かせ、死せるあらゆるものを、再び、
その腕に抱きとって、新たなエネルギーを与えていく。満々とたたえられた大生命海がある。
その海は、常に動いている。動き、変化しながら 「生」 と 「死」 のリズムを奏でている。
 私たちの生命も、大宇宙という大海から生まれた 「波頭」 のようなものです。
波が起これば 「生」、また大海と一つになれば 「死」 です。
永遠に、これを繰り返していくのです。人間の生命だけではない。 

 日蓮大聖人は
「天地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし」(1336P) と。
 「天地・陰陽・日月・五星」 とは、いわゆる天体の世界でしょう
。星にも誕生があり、死がある。寿命がある。一つの銀河にも誕生がありい、死があり、寿命がある。
生死の二法です。
ミクロの世界も同様です。また地獄界から仏界という 「法界」 にも生と死がある。
あるときは生の地獄界となり、あるときは死の地獄界となる。
 また大聖人が門下の南条時光のお父さんについて、
「いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり」(1504P) と仰せのように、
即身成仏の仏果は死をも超えて続く。全宇宙のありとあらゆるものが 「生死の二法」 の
永遠のリズムを織り成しているのです。


  更に、深くはここ  



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キリスト教の死の世界

1.カトリック
罪の結果としての「死」
キリスト教では「死」を人間の原罪がもたらした刑罰と見なしている。
新約聖書には来世に関する具体的な表現はないが、教会での教説が精密化するにつれて、
天国、地獄・煉ごくの区別がつくられてきた。
天国では祝福された魂が無上の喜びを永遠に享受するが、
地獄に堕ちた魂は神の領域から閉め出され苦しみを味わうとされる。
イエスは十字架を背負うことで人類の罪をあがない、復活したことを信じる者は、
すべての死者が復活する最後の審判の場面において、永遠の生命を与えられる。

「私の父の御心は、子(キリスト)を見て信じる者は皆、永遠の命を受け、終の日にはその者を復活させる」(ヨハネ福音書)

死後の5つの世界
死者は死後、次の5つの場所に行く。
(1)地獄:邪悪の人間が行く。
(2)天国:キリストを信じ、徳に生きた人が行く。ここには肉の復活の希望がある。
(3)辺獄:キリスト以前に生れた義人、徳高い異邦人たちは父祖の辺獄に行く。
(4)幼児の辺獄:洗礼を受けないで死ん だ幼児は、幼児の辺獄に行く。リンボは天国と地獄の中間にある。
  ここでは地獄の苦しみはないが、神を見ることはできない。
(5)煉獄:キリストを信じたが、罪を犯しその償いが果たされていない人間が、浄化のために行く。

ここはリンボと地獄の中間にある。
ここにいる人間は、罪悪感の為、火に焼かれるよ うな苦しみを味わう。
もはや行為によって償いをすることができないので、苦悩によって償うのである。
生者が死者に代わって功徳を積む場合、そのとりなしによって罰や苦痛が軽減されるという。
祈り、喜捨、ミサはそうした役割をもつ。

肉の復活のための埋葬
カトリックでは、臨終の時を大切にする。この時に罪を告白し、懺悔することによっ て罪を拭い取り、
聖別された油を塗ることで、霊的な健全さを回復する。これは7つの秘跡のうちの「終油の秘跡」という。

亡くなるとまずその故人を偲び、故人のために祈り、遺族を慰めるために通夜を行な う。
次に葬儀はミサ(聖餐式)で行なう。このミサがレクイエムで始る。
レクイエムとは安息を意味するラテン語である。ミサが終ると告別式を行なう。
葬列では、イン・パラディスム(天国ヘ)が歌われる。この葬列は普通日本では行なわれない。
キ リスト教では、遺体処理は、肉の復活との関わりから土葬が普通である。
墓地では、信仰的にさらに希望に満ちた歌が用いられる。
こうして徐々に生者も死者も、悲嘆の状況 から未来の救い、再会への希望へと尊いかれていく。
追悼は死後3、7、30日。そして年ごとの命日に行なう。この時に追悼のミサを行なう。

(吉野)
2. プロテスタント
生前の信仰によって決定する
あらゆる人間は生れながらにして罪人であり、死後永遠の地獄行きが定められている。
ただキリストを信じ、「義」とされた人々だけが永遠に天国に入ることができる。
死後の状態は自分の力によらず、キリストの死と復活のゆえに、この恵みに対する信仰によって決定され、
死後は神の御手に委ねられている。
カトリックとは異なって浄罪界、煉獄もなく、引導や追善供養も無駄であるとプロテスタントでは説明している。
これは無慈悲な世界観だという感じがするが、それにたいして、死後に救いの手を差し伸べたいという気持があるのなら、
なぜその人が生きている間に、その人を愛し、救いの手を差しのべなかったのか。
それをしなかった埋め合わせとして、死んでから祈っても無駄であると考えている。
信仰をもつ者にとっては、死は神の祝福であり、プロテスタントの葬儀は生者のためのものであり、
そこに集う者が信仰を深めるためのものである。

最後の審判を持つ死後の魂
人間の生涯は3段階に別れる。
第1はこの世の生れてから死ぬまでの肉体をもった存 在である。
第2は死んでから復活するまでの中間状態で、肉体のない不完全な段階である。
第3はキリストの再臨後の復活した体における生活で、永遠に続く段階である。
こ の間、ずっと意識は持ち続ける。誰も決して死後永眠することはないのである。
不信心者は死後黄泉(ハデス)に入り、苦しみながら最後の審判を持っている。
キリストの再 臨のとき、体の復活とともに永遠の苦しみである地獄に入る。
信者は死後パラダイスに入り「神の御座にいて、聖所で夜も昼も神に仕え」(黙示715)て
喜びと安らぎのなかで、 復活を待ち望んでいる。
キリストの再臨とともに、故人の体が復活し、永遠の喜びである天国に入る。
黄泉とパラダイスの間には大きな深淵があって、行き来することはでき ない。

呪術的要素のない葬儀
死者の魂は、死の瞬間にはこの世を去って、神の御手のなかにある。
従って死者の霊 はこの地上に留まってさ迷ったり、生者の世界に干渉することはない。
それゆえ葬儀には呪術的なものは一切不要であり、ただ遺族の慰めと死者の記念のために行なわれる。
通 夜も不要で、ただ死者の遺徳を偲ぶために前夜式を簡潔に行ない、遺族には静かな一夜を過ごしてもらう。
葬式では讃美歌、聖書朗読、祈祷、故人略歴、弔辞、説教が行なわ れる。
納骨式も簡素に行なう。葬儀以後も、死者を偲ぶ「記念会」を1か月とか1年後におこなったりする。

 
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③イスラーム教の来世観には、ユダヤ教、キリスト教と同じく、最後の審判という教えがある。
この審判は、個々人に対して死後に下されるのではない。
人類の歴史の最後において、全人類に対して審判がなされるのである。

 最後の審判の日に、死んだ者は全員が生き返り、神の審判を受けるとする点は、ユダヤ教、キリスト教と同じである。
ここで天国に行く者と、地獄に行く者とに分けられる。
イスラーム教では、魂だけが天国に昇ったり、あるいは地獄に堕ちたりするのではない。
現世の時と同じ肉体のままで、天国または地獄に行くとされる。
また、最後の審判の時に復活する人間には肉体が必要だとして、死者を土葬にするのが、イスラーム教の特徴である。
火葬は、地獄に堕ちた者に対して、神が下す処罰だと考えられている
。したがって、火葬は人間が行うべきものではないとされ、遺体を火葬にしない。
 イスラーム教では、地獄(ゲヘナ)は火のイメージで描かれる。
『クルアーン』には、そのイメージによる言葉が多く記されている。
たとえば、第4章56節「本当にわが印を信じない者は、やがて火獄に投げ込まれよう」。
第22章22節「苦しさのため、そこから出ようとする度に、その中に押し戻され、
『火炙りの刑を味わえ。』(と言われよう。)」などである。
 この地獄の責め苦は永遠に続くとされる。第5章第37節「かれらは、業火から出ることを願うであろうが、
決してこれから出ることは出来ない。懲罰は永久に続くのである」。
第43章74節「罪を犯した者は、地獄の懲罰の中に永遠に住む」戸いう具合である。
 
仏教では地獄を一定期間の贖罪の場と考えている。
もっとも一番短い刑期は、1兆6200億年である。
気の遠くなるような時間だが、有限であって無限ではないのが特徴である。これに対し、
キリスト教やイスラーム教では、地獄は永遠の責め苦を受ける場所である。
いったん地獄に堕ちたら、二度と帰ることはできない。
 だが、キリスト教やイスラーム教は、有限の刑期の場所も設けている。
これを煉獄という。煉獄は、罪の浄めのために一時的に服役する場所である。
キリスト教では、もともと天国と地獄だけだったが、中世のカトリック教会は天国と地獄の間に煉獄を置くようになった。
プロテスタントは煉獄を言わない。
 イスラーム教は、現世については非常に禁欲的な生活を説くが、
来世については極めて肉体的な快楽と官能的な欲望の実現を説く。魂の精神的な喜びとは、異質である。
 イスラーム教の天国は、緑園といわれる
緑や水の豊かな場所がイメージされている。
砂漠の民にとっての憧れの地なのだろう。緑園では、現世で禁じられている酒は飲みたい放題である。
食物も美味で食べたい放題である。多数の美女と性交することができ、いくら交わってもその美女は処女のままだとする。
 イスラーム教は、欲望の追求を否定しない。だが、現世での欲望など大したものではなく、
善行を積めば来世の天国で遥かに大きく欲望が実現される、と教えている。
この点、欲望の追求こそが迷いであるとして最も罪悪視する仏教とは、根本的に異なっている。
 イスラーム教徒であっても、現世で大きな罪を犯した者は、最後の審判を受けて地獄に落とされる。
ただし、いったんは地獄に落とされるけれども、最終的には、アッラー以外の神を拝まない限り
最後はアッラーが許して天国へ入れてくれることになっている。イスラーム教徒である限り、最後はみな天国に行く。
そこで家族みなで暮らせるというわけである。
アッラー以外の神を信じることは最大の罪とされ、永遠の地獄に送られる。
 イスラーム教徒は、死後、最後の審判の時を待つ。その審判がいつ行われるかは、具体的に説かれていない
。ひたすら時の到来を待つ。ただし、例外がある。
それはジハード(聖戦)で死んだ者である。聖戦で殉教した者は、最後の審判を待たずに天国に直行すると信じられている。
こうした教えによれば、戦闘に当たり死など恐れるに足らぬものとなる。
日本では、浄土真宗の門徒は、阿弥陀如来に帰依すれば死後必ず極楽浄土に行けると信じたので、
一向一揆で死を恐れずに奮闘し、織田信長さえもさんざん苦しめた。
イスラーム教は、異教徒との戦いを聖戦とし、これを信者の義務とし、戦士に来世の救済を約束することで、
勇猛果敢な軍隊を組織し得た。そこに、イスラーム教が短期間に広域に宣布された最大の理由がある

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ヒンズー教の死の考え

インドを中心に南アジアに広がる民俗宗教であるヒンズー教は、シャーマニズム的なものから、
梵我一如を説く深遠な思想、実践体系に至るまで多様性を包括した宗教の宝庫である。
その神々、儀式は日本にも仏教を通じて、形を変えながらも多くが伝来している。
インド人は日本の寺院で護摩を焚く儀式を見ると驚くという。
ちなみにヒンズー教では護摩(ホーマ)を焚くことは古来よりバラモンの中心儀式であった。

インドでは人が死ぬと荼毘(火葬)に付される。死者はその火とともに天に昇って、神か祖霊の道を進む。
生前に真我(アートマン)を認識する修行を行った者は、神の道、
即ち炎、光、昼、満ちゆく月、北行する太陽を通って、梵(ブラフマン)の世界に行く。
そして再びこの世に輪廻することはない。
それ以外の人間は、祖霊の道、即ち欠けゆく月、煙、夜、南行する太陽を通って、
祖霊(ビトリ)の国に至る。
やがて時期が来ると、同じ道をたどって、地上に生まれ変り、死者の生前の行為(カルマ)に従って、
人間・動物の胎内に入り生れ変わる。
悪を犯した者は閻魔(ヤーマ)の世界に行き、罪が清められるまで責苦を受ける。

ヒンズーの臨終念仏
来世にどこに生まれ変わるかは、死者の臨終のときの心のもち方が、決定するとも言われている。
即ち臨終のときに生前もっとも関心を寄せた事柄が頭に浮かび、この最後の思念が来世への運命を担っていくのである。
ヒンズーの聖典、『バガバッドギータ』に「臨終にさいして、如何なる状態を念じつつ肉体を捨てようとも、
常に思念したその状態に達する。
その時私(クリシュナ、最高神)のみを念じ、肉体を脱していくものは、私の状態に達する。」と述べられている。

ガンジス河に消える死体
死者は火葬の炎によってのみ天に帰ることができると考えられ、
変死したもの、葬式を行わなかったものの霊は地上に止まり、悪霊(ブート)、亡霊(プレータ)として
人間にさまざまな悪をなすといわれている。
ベナレスでは死体はガンジス河のほとりの沐浴場(ガート)近くにあるバーニングガートで、
男は白、女は赤の布に包んで、薪のうえに乗せ、衆人の前で焼く。
そしてそのあとの遺灰も骨も川の中に投げ込まれる。
昔はスマナーサという塚を作ったことがあったが、現在では墓も仏壇も位牌も作らない。

昔は夫が死ぬと、妻も一緒に火葬される寡婦殉死の風習(サティー)があったが、近代にサティー禁止法ができ無くなった。
祖霊祭(シラダー)は『マヌの法典』に規定されているとおり非常に重視された。
死後12日間が喪の期間にあたり、10日目に祖霊祭が行われ、1年間は毎月死者のために祖霊祭が行われ、
1年を過ぎると他の先祖と一緒に1年に1度お祭りする。
団子(ピンタ)を供えて、過去3代の祖霊を祭る。3代の先祖のかわりに3人のバラモン僧を供養する。

教の聖地ブッダ・ガヤの北にあるブラフマ・ガヤはヒンズー教の先祖供養の聖地である。
毎年大勢の人が先祖の解脱を求めてガヤに巡礼に出かける。インドはまだ宗教が生きている国である。




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生命の本質

死の問題はその対極にある生の問題と
生命そのものの問題であり
「宇宙線」のその向うにある人類の感知
できない世界と共に。科学の範囲を越えて
純粋に哲学、つまり人間の思惟と想像の問題に
なるのではないでしょうか

宇宙の本質の問題に関しては、天文学ではなく
「結局は哲学、宗教 に託されるべき性質のもの」
なのではないでしょうか

生命の本質についての問題は、哲学と宗教の基本的問題でもあるのです。
生命は何処から来て、何処へ行くのか。
この人生最大の課題は哲学と宗教の出発点であり帰結でもあります。
哲学 と宗教はこの問題に注目することで、
人間の人生にとっての目的と意義について注目するようになり、
それによって人類の「究極の関心事」を説明しようとしたのです。
同様に、一人の宗教思想家として、池田大作先生のすべての思想体系の中で、
最も人々の関心を引きつけるものが、氏の生命論なのです。
これはただ単に氏のすべての思想展開の原点であるだけでなく、
氏の思想体系の中で最も堅実な哲学理論の基礎となっているのです。
言い換えれば、まさに池田先生の生命に対する深い思索は、
氏の人間学と社会革命の理念と実践を裏付けています。
したがって、池田先生の生命論を深く把握することは氏のすべての思想体系と
実践の核心の所在を知る手がかりともなるのです

宇宙は生命の海
生命の起源を探求するにはまず宇宙の根本的問題について遡らなくてはなりません。
この問題については ビッグ・バン説や重複宇宙説などがあるが。
池田先生は、どの説にっいても人類の認識能力には限界があることを認めています。
ドップラー効果によれば、星雲間は驚くほどのスピードで互いに遙かな方向へ
向かって離れており、地球から200億光年の彼方になると、人類の自然科学は
その能力を発揮できなくなるのです。
また地球からの距離が200億光年以内の宇宙は、物理学上では可視的宇宙であり、
これより遠い、いわゆる「宇宙線」のその向こうは、人類の感知できない世界であり
「そこから先は科学の範囲を越えて 純粋に哲学つまり人間の思惟と想像の問題になります

宇宙の大きさは有限か、それとも無限か。宇宙はどのような起源を持つのか。
宇宙 の本質の問題に関しては「結局は哲学、宗教に託されるべき性質のもの」である。
ここで、池田先生は この科学的問題を哲学化、宗教化することで、
人々が現実の物質的世界から瞬く間に宗教的主観の世界へと入り、
そしてそこから生命の本質についての宗教的認識が、自由で闊達な合理的背景を
得ることができるとされている。
仏法では、宇宙は 「五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界」であるとしている。
「那由他」とは現在の数量概念では一千億に相当し、「阿僧祇」は10の51乗である。
したがって、これは計算できない巨大な数字である。
また仏法では、宇宙は無限大であり、無量無辺で 無始無終であるとみなして る。
この無限大の宇宙において、生命は如何にして誕生したのか。
池田先生は「宇宙を有無という二つの概念のみでとらえようとすれば、
そこにおける生命の発生は、無から有を生じたといわざるをえません」と 述べ、
この点については仏法では否定する。
なぜなら仏法では生命は有無の概念を超越していると理解するからである。
仏法では、ある意味で、「地球を含む宇宙それ自体が本来 生命的存在であり、
"空"の状態にある生命を含んでいる。
それが"有"として顕在化する条件が整ったとき、宇宙のどこにでも
生命体として発生する可能性がある」と 理解しているのである。
池田先生は 「生物を生み出す力 が宇宙自体にあり、
無生の物質にも生命が冥伏した形で内在している」としまた
「大宇 宙それ 自体が一個 の生命体である」とみなしている。
すなわち、地球を含む宇宙それ 自体が本来 、生命的存在であり
「空」の状態にある生命を含んでいる
「有」として現出できる条件を持った時に、宇宙のいかなる場所でも
生命体として出現しうる可能性を持っているのである。
したがって 池田先生は
「宇宙自体が生命を誕生させる力を内包した"生命の海"である」と述べ てい る。

宇宙はこれまで一貫して何物も存在しない 「真空」であるとみなされてきたが、
じっはそれはたえず 「物」 を生 出す生命空間だっ のである。
この発見 は20世紀の科学が証明した偉大な成果である。
現代物理での真空は「空」ではないが、その本質を現時点の言葉で言えるとす
れば、我々の科学では事物を包含する基本的物質の存在形態である、
ということである。
アインシュタインは、物理空間は 「たんなる広がりをもつだけの空虚ではなく、
それ自体の性質が、その中に存在する物体に影響を与えたり、
ある条件が整えば、物質を生み出す可能性をも含んでいる」と分析している。
このように、
現代物理学の空間認識 と池田先生の「空」の概念 は深い共通性をもっている。
また池 田先生の 「空」 の生命起源の観点は現代科学の論証を得ているのである。

池田先生の 「空」の宇宙観では「空」は一種の生命創造の力で るだ けでなく、
生命そのものの一種の形態でもある。
また それは新たな生物や物質変化を生み出す原動力でもあり宇宙に内在する
一種の創造的力でもあり、神秘的な 「無定体(物 質的実体を持 たない)」 の
真実の存在である。 したがって、
池田先生の宇宙観は、実際に「宇宙即生命 、生命即宇宙jの大生命観なのである
この生命観は強い科学探究の精神を体現し、知的思惟の色彩に満ちており、
「上帝造人(神が人間を創造する)」という創世神話と比して
科学的にも人々を納得 させ るもので ある。
それ故 この基礎の上に形成された池田先生の思想体系は強い信仰のカをも
有することになるのである。

,生命は作者であり作品、
池田先生は 「生命の誕生という厳粛な事実を前に私どもは科学 、哲学、宗教の
すべての英知を集め、その重要なテーマを探求していくべきである」と言う。
生命 の起源 については、一般に支持されているのは 自然発生学説 である
原始段階の生物化石の発見と簡単な有機物 の人工合成によって この学説は証明されている
具体的には、最も早い生命形態は無機物の中から有機物が生み出され、
タンパ ク質を形成し、その物質の新陳代謝によって生命体が誕生したのである。
だが池田先生はこの種の生命起源の解釈は
ただ生命を物質現象としてとらえているだけであり、生命誕生の過程を探求する時
「私が問題にしたいのは 『どのように』ではなく、
『なぜ』無生の物質の世界に生命が誕生することができたか、 という点です。
それは、物質現象の側面のみの問題ではなく、 もっと深く、
生命の本質にまで掘り下げてみなければならないテーマになる」と述べている
つまり、宗教哲学は科学よりもさらに一歩進んで、
生命 起源 誕生の過程を明らかにすることで満足するのではなく、
さらに生命起源の原因についても明らかにしなければならないと考えている、 と言えよう
地球上に生命が どのようにして誕生したかではなく、
この地球上に生命がなぜ誕生したか という問題なのである。


池田先生は、論理学的に「誕生した当初はたぶん無生であった地球に生物が発生した
ということは、無生の地球それ 自体のなかに、すでに生命への方向性をはらんでいた
といえるのではないで しょうか」と述べている。
生命は決して受動的存在ではなく、能動的存在である。
生命 のこのような能動性は「激発性」とも言えるが、いったいどこから来たのであろうか。
池田先生は 「私は 無生のなかに生を内包し、その生が自己を顕現してい った過程こそ、
まさに命 の起源 の意味す る ところだ と思 うのです」と言 う。
まさしくこの点にこそ、池田先生が生命 の起源を一種の 「`創造'さ れた`新 産 物'」である
とする見解に同意しない理由がある。
なぜ なら生命が無から創造されたのであるとすれば、必ず創造者がいなければならない。
そうなると自然 に一個の創造 「神」の存在を認めることになるからである。
池田先生は生命起源 の正確な解釈 として 「発現」説を採っている。 いわゆる 「発現」 とは、
元来すでに存在していた物が顕在化することである。
このことについて、トインビーも
「変化が現われるのはすべて実際には錯覚にすぎなくなってしまいます
なぜなら、現在存在するものも、これから存在しようとしているものも、
すべて初めから存在していたことになってしまうからです。
すべての出来事は、 もともと潜在していた実在の要素が徐々に顕在化したのだろう
ということになってしまうわけです」と述べている。
この見解に従えば世界上には無から生じたという、いかな るもの も根本的に存在せず 、
現在存在し将来現出するものは、 もともとあった物質が表面化したものであるにすぎない。
それ はまた、事物 の存在はすべて 「潜在 」から 「顕在」へ という過程 があり、
それゆえに有の中に化有があるのであって、無の中から生を有するのではない。
池田先生は 「生命 は地球の誕生から現在までみずからの顕現と出現を継続的に持ち続けており、
みずか らを個別 的に発展させる方向へと向かわせていく」性質を有することを
肯定的にとらえている。
このような個別化する生命に能動性があることは「生命エネルギーのカ」 と言ってもよく、
「すで に無生の地球それ 自体に内在していたはずですと。
この意味か らいえば、「生命はそれ自体作者であり作品である」といえ よう。

ここで、われわれは 池田先生が繰り返し言している
「空」の概念について より進んだ理解が必要であろう。
なぜなら、この 「空」 の概念を理解できてはじめて生命とい 存在の性質について
理解できるからである。
池田先生はいわゆる 「空」 とは言葉 表現できない存在状態であり、現象として現われたものでもない。
しか しそれは一種の存在であり、視覚できるものではないために「無 」と同様 に見 なされている
と言うこともできる。しかし、それは縁に触れることで 、肉眼で見ることのできる形態として
出現するので、 このような存在を 「無」 と呼ぶことはできない。
したがってこのよ な状態を 「有」と「無」だけで表現することはできないのである。
いわゆる 「空」 とは、「有無」を超越 した実在であり、「真有jでも 「虚無」でもなく、
それは無量の潜在力を内含しており、無限の創造力を持つ 「生命 空間」である。
これ 現代物理学の 「統一場」 の概念と近似している。

池田先生は仏法の 「空」 と言う概念を用いて宇宙 の起源と生命の誕生を解釈しており、
宇宙観と生命論を合一させ 、宇宙 地球 人間の三者 に同一性 を具有させる。
氏は現在の生命についての概念は狭隆で 生命を生物学上の存在とのみ見なしているが
これでは生命を有形の物とのみ認識させ 、本質的な意義の探求をおろそかにしてしまう。
仏法の 「大生命 」観は、生物学上の生命を一種の存在とみるだけでなく生命を生み出す力
そのものの一種の存在であるとみなしており、前者が顕現形態であり、後者 が潜伏形態であり、
両者はともに生命そのものが備えている異なる表現形態である。
この意味から人間や地球や宇宙が生命であるばかりでなく、そのすべてが
同一性を備えたものを必然的に持つ 共同性を有している。
したがって、人間、地球、宇宙とはその形態には違いがあるが、本質的には一体であり、
宇宙即人間、人間即宇宙 である。

この思想 は池田先生が人類思想の歴史上の独創的な(インド思想の 「汝即梵」中国思想の
「我心即宇宙」)な どの伝統思想を、新たに理論的に発展させたものである。

以上の考察を通し、我々はまず池田先生の大生命観に含まれる徹底した科学的理念を理解することができる。
氏は仏法の「空」の概念を現代物理学の「場の空間」理論に応用して両者を結びっけた。
これは自身の宗教思想に基づく確固たる立脚点から出発している。
これ はまた伝統的宗教思想が科学の発達した現代に対して与えた一っの発展の道程 ある。
第2には池田先生が示した「空 」の概念を理論的支柱とする生命起源説は、
有神論と無神論を画する画期的な理論 であろう。
池田先生の生命観には、伝統的観点が備えていない革命的思想をもっている。
氏は人間が一個 の生命体としてもともと有している主体性 能動性、そしてそこから生み出される
創造的潜在能力を強調しているが、そこに氏の人間学 すなわち人間革命の理論的根拠を
見出すことができるのである。

生死不二
池田先 の生命論では「空」の概念を用いて宇宙と人間の同一性の 「発見」に成功しただけでなく、
さらに 「空」の概念によって「死」を超越することができた。
そしてこの人類にとって最も重要な問題を理論的に昇華させ 氏の人間学において
最も核心的で革命的な内容を展開しているのである。
「たとえ千年の鉄の濫にありても、終には一つの土饅頭(墓)を要す 」 とあるよ うに
古来、死は深刻 かっ甚深な人々の心の奥底を圧迫する本質的恐怖であった。
科学がいかに進歩しようとも、社会がいかに発展しようとも、
「生あればすなわち死があり、人は総じて死ななければならない」のである。
この問題はいかなる人間であっても解決できないが、人類の最も根本的な
「臨終に関心を持っ」宗教にとっては必ず解決すべき難題であり続けてきた。
では、池田先生はいか にしてこの問題を解決したのであろうか。
池田先生は 『法 華経 』を中心とする立場から、
日蓮以来の生命論の理論的成果を吸収し「空」の概念を極限まで発展させ、
死に対して独創的で深遠な考察をおこなっている。
池田先生は 「ふつう、生命は 『生で始まり』、『死で終わる』 と考えられ ている。
しかし日蓮大聖人は、生命とは三世永遠にわたるもので あり、『生』も 『死』 も、
生命にもともとそなわった 『本有』の理である と説かれている」と言 う。 したがって、
池田先生は次のように主張する。
「生命というものは 『時間』『空間』をつらぬいている無始無終の実在せるものであるといえる」
さらに、また、「もともと、生死をこえた永遠にわたる生命の実在がある。
全世界を焼尽する大火にも焼けず、水が災いをして朽ちらせることもできない。
剣にも切られるものではなく弓をもっても射られることもできない。
きわめて小さい芥子粒の微塵にいれても芥子粒が広がることはなく、
また広大無辺なる宇宙のなかに遍満しても、宇宙自体が広すぎるということはない。
つまり一念の生命というものは、生死、生滅 、大小 、広狭の相対性をこえた不変の実在である」
と述べる。すなわち、「生命の流転というものは永遠である。 これが仏法の大原則」なのである。
この大原則 をさらによりよく示すために、池田先生は次のような例を挙げている。
「これは、一 目にたとえてみるな らば朝日が昇り目をさます。『生』である。
その 『生』の延長 として一目の行動が始まる。
一 日の活動を終えて 、疲れを癒すために家路につく。
夜、あすの 『生』 のために休息の床につく。
これすなわち一 日の『死』である。 これ と同 じように、一生の価値 ある活動を終え、
新たな活力 ある生命力をえるために、『死』とい う方便の姿を示すというのです 」
と。 これが 『法華経』で説くところの 「方便現捏藥 」である。
したがって、大乗仏教 の主張する 「生死不 二」 とは、生と死 は時間と空間にお ける現象であり、
生命とはこの時間と空間を超越した存在の、2種類の異なる顕現形態なのである。
それぞれの生命体はすべて生命が顕現した状態である。
いわゆる 「死」とは生命が 「冥伏 」した状態であり、「冥伏」は無 に帰結するのではない。
これにっいて、池田先生は さらに解釈を加えて「空」という概念は、目には見えないが確実に存在し、
有と無のどちらか一方を用いて決定できる概念でもない。
これとは反対に、現実の様々な状態で出現するそれぞれの形態は「仮 」と呼ばれる。
心身の統一した生は「仮」の状態であり、その中に「空」を含んでいる。
死後の生命は「空」 となって存在し、同時にその中に「仮」の傾向性、方向性を含んでいる。
一 旦条件がそろえば、生命の存在形式は「空」から 「仮」へと変わり、
肉眼で見ることのできる現実の物体となって 「再生」するのである。

「空」 と 「仮」 を貫く生命の本質を 「中」 と呼び、 この生命の本質は永遠に「空」 と 「仮」
の中を無限に流転し続け、ある時は顕現し、またある時は冥伏していく。さらにまた生命 は
「成住壊空」 という生命発展の リズムのなかで生死流転し、永遠にとどまらない
人も星も宇宙そのものも同様 である。
仏法においては、このような生命本源の法理を明確に示している。
それは 「有形 」を通して 「無形 」を理解し、「無形」を通して永遠を理解するので ある。
生命 が生死 流転 の輪廻の中にあるのであれば、 自然に人間の運命の問題が発生してくる。
したがって、宗教の因果応報という運命説も同様に導き出される。
仏法からみて、運命の法則 とはすなわち因果応報である。
一人一人が一生で成すところの全てが自己の「業」となり、来世に転生するための 「因」となる。
そしてすべての 「業」には必ず応報があり、いわゆる「善には善報、悪には悪報」がある。
今世に蒔かれた因は、必 的に来世にあっては果となるのであり、
「瓜を蒔けば瓜を得 、豆を蒔けば豆を得る」 ように、いかなる因がいかなる果を得るのか
応報にはいささかのくるいもない。一人一人がみずから蒔いた因はみずからその果を食するのである。
われわれは、現在、科学的証明が得られないため、永遠の生命の問題に関しては、
依然として哲学宗教の仮説 を承認せ ざるをえない。これ について、池 田先生は、「た しか に、人
間の知的能力 には限界がありその範囲を越えた宇宙の究極にあるものや、
人間の生命 の本質に関する定義 はすべて 『仮説』にならざるをえないと思います」と述べる。
しかし、この種の宗教的仮説は、また充分重要であり必要でもある。
なぜなら、科学的仮説が追求するのは真偽の問題であり、宗教の仮説が求めるのは人々の天性を
改善するために必要な価値 なのである。
「人間存在がなるほど現世の生だけのものだとすれば、死後の運命などということは
問題ではなくなってしまう。 しかし、 こうした死後についてのとらえ方の相違は、この世 のわれわれ
人間の生き方をに大きく左右することが考えられるのである」

この意味から、池田先生は仏教の主張する生命輪廻と永遠存在の仮説につ いて次のように主張する。
「仏 教が主張する、輪廻 しながら生命が永続していくという 『仮説』は、人間が生まれながらにして 、
個人によって種々に異なる宿業(カ ルマ)をもっているという事実を説明するうえで、
有効性をもっている」と。 そ して この事実は、
「人間に、自分が人間以外の超絶者によって支配されているのではなく
すべてについて自分自身が責任をもっていることを自覚させ 、
本源的 な主体性がここから打ち立てられることを可能にするということができま しょう」と。
まさしくこの意味において、池田先生は仏法の因果応報を人間革命の要素とみなし、
ここに「人 間の本源的な次元での責任性 ・主体性を 立するカギを秘めている」と述べている。
また 「しか しそうでなければ、刹那主義 、快楽主義 に陥って、なんの進歩もなくなってしまうでしょう。
時代の進歩もなくなってしまう。また人生 あまりにもふざけ半分になってしまう。
それでは、自己を律すること、人々への善意 、社会への貢献などというものは、忘れら去られてしまうでしょう」
とも述べている。
これにより生命の永遠性とそこから生み出される運命の因果律が最終的には仮説の域を出なくとも
我々人類社会の発展にとって必要かっ素晴らしい仮説なのである。
このような仮説の存在は合理性を有し、まさに我々が人間の真、善 、美 を追究するのに必要な前提 となる。
「人の一生での行為は、倫理上の結果を必ずもたらし、 この結果は十分に重要であり、
自己に対 してだけでなく、全人類 、全宇宙にとっても重要なのである」。
そしてまさにこの因縁の故に、人生は意義をもち、宗教も意義をもつ のである。

以上みてきたように、池田先生は生命論において、伝統的な仏教思想の中から最も意義を持っものを掘り起こし、
そして、宗教の生死観から出発して、 より価値と意義を持つテーマ 、すなわち人々がどのように生きていくのかを
導き出したのである。
ここか ら大乗仏教の 『法華経』と小乗仏教は明確に区分されることがわかる。
すなわ ち仏法とは人心なのである。
池田先生は、人間革命の可能性と必要性を理論的に明らかにし、
自身の宗教的政治的実践のために確固とした哲学的基盤を確立したのである。