- おもろいはなし - 




① キリスト教と仏教の接点  
  


  キリスト教の悲惨な歴史   

   日本侵略計画の挫折    

④  イエスの関する資料は  

⑤   十字軍の遠征          


①キリスト教と仏教の接点
  raberu5
 古来インドでは東洋とか西洋の違いについて 意識はしていなかったようです
西南アジアの諸国を中洋とするなら、仏教もキリスト教も、同じ世界から生まれた、
としてもおかしくないのです。

〇いずれも政治上の権力と対決する所から生まれた
〇また 祭紀的呪術の宗教よりも高次元の人間的価値や創造をめざしている
〇実践する弟子達の行動は必然的に民衆救済に立ち上がった
 
 キリスト教の興起以前、ユダヤ教の一分派(異端とされているクムラン教団)
であるとされている、エッセネ派が西暦紀元ごろ 死海の沿岸で約4千人の会員からなる、
修道団体を形成し、仏教の出家修行僧団と、同じような簡素な生活を送っていました
(これに関係したヘブル聖書、ラビの書物 死海文書 等は後日機会があったら)
 一人の奴隷もおらず 武器は持たず 戦争に関係する仕事は一切しない 
禁欲的で 共同生活 独身 菜食主義

 本来ユダヤ教は、ユダヤ人の社会生活の中に 体制宗教として伝えられてきたものであって
社会から離れて 独自の修道生活を営むことは考えられないことから
このエッセネ派と言うのは ユダヤ教の一派と言うより 
〇----仏教の僧伽から影響を受けたものではないか 
〇----イエスは このエッセネ派から何らかのつながりがあったのではないか
 と言う予測をもとに 様々の角度から話をさせていただきます
 この予測は専門家の多くものべています 
 そして洗礼者ヨハネはこのクムラン教団の出身とされています
 更に、キリスト自身もクムラン教団に属していたのではないか、と言う
専門家の多くの予測もあります

 北欧で仏教寺院の遺跡が発見されています
スエーデンは550年7月 小さな仏像が発見されています
 イギリスではオリゲネースがユゼキエル書註解において
「紀元230年頃 その島(イギリス)ではすでにドウルド僧達と仏教徒とが
神の唯一性の教えを広めてくれていたのいで そのずっと以前から それ(キリスト教)
への傾向をもっていた」と記されています


 このドウルド僧というのは 西洋としては異例な「輪廻」の理念をもっていた等など
紀元前3世紀のアショーカ大王による仏教西漸が、当時のヨーロッパの辺境地域である
イギリスのケルン族の間にまで及んでいたのです
 又イギリスの南ウエールスの古代都市の遺跡から ローマ貨幣と一緒にミリンダ王の貨幣が
一枚発見されました、ミリンダ王は前2世紀に西北インドを支配した帝王ですから 
インドからローマを経てイギリスに渡ったのです

 1956年 アフガニスタンでフランスの学術調査団が アショーカ王の詔勅を発見しました
 仏教上の伝説の王とされていたアショーカは、実存した王である事が証明されたのです。
そして その碑文の解読に成功 それはアラム語とギリシャ語で書かれていました 
 そしてそのアラム後こそ アーリア民族の打ち立てた最古の大帝国 東はインダス河流域から 
南はエジプトのヌビアに至る ダウリス大王のペルシャ帝国の公用語なのです、そしてそれは 
イエスの時代の日常用語だったのです
 その事から イエスはこのアラム語を通して仏教に接触し 汲みこんだのではないかと創造できます

 当時 中央アジア(インド西北)は世界文明の十字路と言われる程 南東西を結ぶ文化の要衝だったのです
 中国の長安 西のローマと並ぶ100万都市もこの中央アジアにはあり ペルシャからこの地にかけて
広大な文明圏を形成していたのです。
 東の中国 南のインド 西のローマの間に 国際色豊かな先進的文明圏があり
この中東文明圏の西端であるパレスチナと 東端である大乗仏教の地 西北インドの間に 
交流がなかったとする方が不思議なのです
 今日のような荒廃した後進地帯になったのは、チンギスハーンの征服と徹底的な破壊によるものです

 キリスト教の「来るべき者」としてのメシヤは 仏教の「当来仏」としての弥勒 すなわち
パーリ語の「メッティーヤ」サンスクリット語の「マイトレーヤ」から来ているのではないか
発音が非常に似ているからです
 「天にいます我らの父」は大乗仏教の「久遠実乗の本仏」ではないか
イエスに儀式をほどこした 「ヨハネ」は漢訳仏教の「浄飯王」(釈迦の父)がなまったのではないか
イエスの母「マリヤ」は釈迦の母「摩耶(マヤ)」からきているのではないか

 聖書の中の逸話で 法華経で有名な「長者窮子」の譬えと殆どおなじものがあります
 又 地獄の落ちた罪人を生前助けた蜘蛛の糸で、地獄から引き上げようとする話と
一本のネギで地獄から救おう、と言う話等、いずれも再び地獄へ落ちる様子といい、同じなのです 
 私自身 どちらが仏教でどちらがキリスト教だったか もう一度調べないとわからなくなりました

キリスト教では 神は一つではあるが 「父」と「子」と「精霊」と三つに現れると解きます
仏教では三身即一身」「一身即三身」と解きます
ただしキリスト教の神は一つだが 仏教の仏には普通の人間がなれると解く ここは違う
キリスト教では 神の子であるイエスをこの世に送った
仏教でも「分身三体」と言って 民衆救済のため 自分の身を分けち 様々な国に現れると解く
キリスト教では 殺人 盗み等を戒めた 「十戒」がある
仏教でも 父母のへの殺人を含めた「五虐罪」等で戒め 更に僧が多くの戒律を保つ事が 当たり前えです
今の日本の坊主はいいかげんだが  仏教の衰退は この坊主の特権意識 堕落にある

 又 キリスト教は「愛」を解き、仏教は「慈悲」を解きます、その違いがわかりますか。もちろん違いますが。 
 又 西洋のお伽話の中に 仏教やインドの説話から取り入れたものが かなり多いのです
 ラフカディオハーン(小泉八雲)氏の東西文学評論」のなかで
「今日では旧世界の伝説の大部分はその根元を仏教に辿ることができると信じられている」
と述べている通りです

 仏教はキリスチ教ばかりでなく ギリシャ哲学との交流も考えられます。
 西洋哲学の起源はギリシャにあるとされているが、仏教 ギリシャ哲学とも「自我」「存在」「生命」
に関して共通の関心を持っています
 ソクラテスの「汝自身を知れ」は釈迦の「汝自身を省み訪ねるが良い」と同じ意味です

 仏教 キリスト教が発展した要因に共通する3点をあげます
〇原始的宗教の呪術的迷信を打破しようとした
〇既成宗教の祭祀体系を否定した、これは バラモンとパリサイ人を盲人に譬え
 その否定の仕方まで同じです
〇民族的に偏狭な観念を克服した、仏教は四姓平等を説き、イエスもユダの民族主義を乗り越えました

 仏教は法を根本とする宗教であるのに対し、キリスト教は神を中心とする宗教であるといった比較はあるが
道徳律では相似たものをもっている
 もし 直接的なつながりが無いとしても 本当に深く人間生命を探求していけば、角度は違っても
やがて、同一の方向に到達すると言う事が 考えられないでしょうか
 仏教にしてもキリスト教にしても 世界宗教に発展した理由に、普遍的な心理を含むものがあり、
人間の捉え方にしても、事物の本質の掘り下げ方にしても、万人が納得いくものがあった、と言えます
 もし 人類文明にこの二つの宗教が無かったら、人間の知恵はいかにも底の浅いものに
なっていただろうと思いますも

始め方で 「それ(キリスト教)への傾向をもっていた」と記されていたと書きましたが
中国の孔子の存在も(仏教へのつながりは無いが)仏教への傾向をもっていた事は確かです
儒教の「仁愛」「大同」墨子の「兼愛」「非攻」又道教等もです
又、仏教であれ、キリスト教であれ、イスラム教徒であれ、
どの宗教も「生命の尊厳」を説いています。
その共通の基盤があれば、争いの根を断ち切る希望があります


最後に
トインビーが晩年残した 重大な予告を紹介します
「今から千年後の歴史家が21世紀について書くとすれば
彼は資本主義と共産主義と言う政治論争や科学技術の著しい発展と言う事ではなく
歴史上初めてキリスト教と仏教の対話が深く浸透し合うと言う問題であろう 」  


                           後日、又





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② キリスト教の悲惨な歴史


 1452年、ローマ教皇ニコラウス5世はポルトガル人に

異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えて、
非キリスト教圏の侵略を正当化しました。

キリスト教国の世界侵略とキリスト教は共犯関係にありました

教皇の十字軍も、ピューリタンのインデアンの殺戮も、
聖書の約束の地と、神による異民族殺戮命令を引用しながら
遂行されました。

キリスト教が支配してる国は、概ね植民地にされた国なので、
歴史を戻し植民地支配をするしかないでしょう。

ヨーロッパの外でキリスト教人口比90%以上の国を見ると、
侵略、植民地化、搾取、強制改宗、大量殺戮、奴隷売買など、
キリスト教団や教徒に、ひどい目にあわされた国ばかりです。


コンゴ民主共和国 人口の95.7%がキリスト教徒
メキシコ 人口の95%がキリスト教徒
フィリピン人口の93.1%がキリスト教徒
ブラジル 人口の90.2%がキリスト教徒

メキシコに「征服の踊り」というものがあります。

以下、佐倉 哲氏の引用です

征服の踊り
--- アイデンティティーの喪失 ---佐倉 哲

メキシコのインディオの人々に「征服の踊り」という
民族ダンスがある。
それは、スペイン人がマヤ文明やアステカ文明を壊滅し、
先住民を奴隷化し、メキシコにおける征服者となったことを
忘れないため,
インディオが踊るダンスである。
踊り手はスペイン人に似せた仮面をかぶり、左手に十字架、
右手に剣をもって、聞く者の心をえぐるような
「これを取るかそれともこれか」、というようなしぐさで
交互に突き出しながら踊り歩く。
これを見物するインディオの人々の顔が悲しい。
私はこれを見て、いつも涙を禁じ得ない。
彼等を奴隷にし、彼等の文明のアイデンティティを捨てさせ、
彼等を地獄に落とした、その張本人の西欧キリスト教文明が、
彼等の救世主となったことを示そうとしたのである。

西欧キリスト教文明が純粋な悪であったら、
インディオにもまだ救いはあったであろう。
しかし精神的経済的援助を、その西欧キリスト教文明の善意に
頼らざるを得なくなったとき、彼等に救いの道は閉ざされてしまったのだ。

現在、中南米のカトリック教職者たちは、インディオたちに
「人間一人一人のなかにこそ神聖なものがある」ことを理解させようと
努力しているという。なぜかというと、
征服の過去が、現在でもインディオたちをして、
スペイン文明の後継者たちに対して深い劣等感と恐怖感を抱かせている、
そういう事実が歴然としてあるからだ、と説明する。
しかし、これらのカトリック教職者たちは、救おうとする彼等の誠意自体が
インディオの救いを妨げていることに気が付かないのである。
「征服の踊り」の深い悲しみは、自己の救いの根拠を自己の文明のなかに
見い出すことができなかった者の悲しみである。


殺せと神が命じるとき

モーセに導かれて約束の地を目指したイスラエルの民でしたが
かの地には異民族・カナン人が住み着いていました。
このカナン人を一人残らず絶滅させよと神が命じる場面が
旧約聖書に登場します。
このような厳しい命令を、なぜ愛なる神が出したのでしょう

Q.62 旧約聖書では、神様が、敵や異教徒と戦い、
女・子供に至るまで一人残らず殺せという命令を出し、
実際に人殺しが行われたわけですが、
どうして愛の神がそんな事を命じるのでしょうか


魔女狩りも教皇が始めたものです。

1318年、教皇ヨハネス22世が、
魔女を異端審問の対象に加えると公式に宣言。
15世紀後半、ドミニコ会の二人の異端者審問官が
「魔女の鉄槌」という書物を発表しました

そしてルターに引き継がれました。

ルターは言います 私はこのような魔女に何の同情も持たない
私は彼らを皆殺しにいきたいと思う。

「ルターはアウグスティヌスの「魔女との契約」
論理と旧約の出エジプト記のモーゼのしんげん
「女魔術師は生かすべからず」に忠実であった。
彼はそれをドイツ語に翻訳しているのだ。
このように伝統的な教会悪魔学の魔女論理を引き継いでいる。
実際に彼は1540年ヴィッテンベルグで4人を魔女として
火あぶりにしている。
魔女とキリスト教 上山 安敏 講談社学術文庫 p293」

ナチスのユダヤ人虐殺もルターの思想の具現化です。
晩年にはユダヤ人の撲滅を主張して
「ユダヤ人と彼らの嘘」を書いています。


ユダヤ人は奴隷にするかさもなくばキリスト教諸国から
追い出すべきだ。
ユダヤ人ゲットーやシナゴーグなど焼き払ってしまえ。と
ゲットーシナゴーグ焼き払う。
またルターは急進的な再洗礼派を抹殺すべきと
1531年にはウイッテンバーグの神学者の承認をとりつけ
再洗礼派の処刑をした。

さらに、ルターは聖書を引用しながら、
農民の皆殺しを諸侯に進言しました。

神に対して、まったき心の確信をもって、
次のように言うことができるのである。
「私の 神よ、ごらんください。あなたは私を諸侯あるいは
領主にしてくださいました。
このことに私はいささかの疑念もさしはさむことはできません。
悪をなす者にか ならず剣を用いよ、というのがあなたの
私に対するご命令です[ローマ書一三章(四節)]。
これは、あなたのみ言葉で ありますから、
嘘であるはずはありません。
それで私は、このような職務を遂行しなけ ればなりません。
そうしなければ、あなたのみ恵みを失うでしょう。

そしてまたこれらの農民が、あなたのみ前と世界の前で、
万死に値することは明らかであり、また私は彼らを罰するように
命を受けていることもはっきりしてお ります。
もし私が彼らによって殺され、当局者としての職権と
地位が私からとり去られ、そして滅ぼされるのが
あなたのみ心でありますならば、それでもかまい ません。
み心のままになりますように。

そのようにして、私はあなたのご命令とみ言葉のうちに死に、
また滅ぼされるでしょう。
そしてあなたのご命令と私の職 務に従ったことが
明らかになるでしょう。
したがって私は、血管が動いているかぎり、罰し、
また打ち殺しましょう。
あなたが審(さば)き、また、ことを正し たもうでしょう」と。
したがって、当局に味方して殺される者は、
私がこれまで述べたような良心をもって戦った場合には、
神のみ前に、真の殉教者であるということになるであろう。

彼は神のみ言葉に服従して行動したからである。
これに反して、農民に味方して生命を失う者は、
永遠に地獄の火に焼かれる。
彼は神のみ言葉と服従にそむいて剣を帯びた者であり、
また悪魔の輩下であるからである。……

パウロは人間の義人と罪人の基準をキリスト教信者であるか、
未信者であるかにしてしまった。
パウロのキリスト教の救済には自我の死を恐れ
「永遠の命」望むという究極のエゴイズムがその根底にある。
「信者・未信者を基準に義人と罪人に二分する善悪二元論は、
自他を抑圧する」暴力となるのだ。

キリスト教の歴史上の暴力は、
特定の人々の恣意的なものではない。

「永遠の生命の獲得=キリスト教の救済論に内在する
暴力性(エゴイズム)」の顕現なのだ。





免罪符(めんざいふ)とは、以下のことを表す。

贖宥状(しょくゆうじょう、羅: Indulgentia)のこと。
1 に由来する、自身の罪や落ち度に由来する非難を免れる名目等のこと。
概要
贖宥状
聖職者への告白や懺悔を通じて信徒が神により罪を赦される「告解」(羅: Confessio, Poenitentia)の制度はキリスト教において古くから存在していたが、寄進による「贖宥」という形で制度化が進んだのは中世ヨーロッパでの出来事であった。かつて十字軍遠征に於いて従軍できない代わりに寄進を行ったのが始まりとされ、それがローマ等の聖地巡礼による贖罪を行えない代償としての寄進、更には聖堂の建築などへの献金、と転用されていった。そうした寄進の見返りとして教会から発行されるのが贖宥状、いわゆる免罪符である。

つまり「貴方の全ての罪は赦されますというお墨付き=天国へのチケット」を金銭で買うのである、と書くと非常に生臭いものを感じるかもしれない。しかし、このシステム自体は福音書にある有名な「富める者が天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」旨のイエス・キリストの発言にも合致するものであり、例えその裏にあるのが露骨に経済的動機や政治的動機であったにせよ、聖職に対する寄進等に何らかのご利益を期待するのは、別にキリスト教でなくても普通に抱き得るごく自然な感情である。逆に言えば、俗世側からも大いに需要があったからこそ成立していた制度なのであり、例えばその土地の領主が贖宥状の販売を禁止しても、領民はわざわざ他の土地に出向いてまで贖宥状を買い求めたものである。末期には個人の罪のみならず、煉獄で罪を償い続けている魂すらも救済の対象となる。現代人以上に死を身近に意識(メメント・モリ)せざるを得ない脆弱な生活インフラの中に在った中世人にとって、来世の存在は現世と同等以上に現実的なものであり、来世での幸福はまさに死活問題だったのである。

こうした状況下で日頃の不信心を面倒な告解を経ずともお金で比較的手軽に解決できるこの制度は大いに普及した。だが、ヴィッテンベルク大学の神学教授マルティン・ルターは「そんなんどこにも神学的根拠あらへんやん」と純粋に教理的な理由から贖宥状制度の存在に疑念を抱き、1517年に数々の疑問点をラテン語で箇条書きにして大学の聖堂の扉(掲示板として利用されていた)に張り付け、他の教授や学生たちに広く意見を求めた。この「贖宥状の意義および効能に関する私見」と題された九十五か条の論題が、大学に通う帝国各地の貴族や商家の子息の間に議論を巻き起こし、更に印刷や翻訳を経て大陸中に広まって後の大きな歴史的潮流となる宗教改革のきっかけとなった。

尤もルター自身はカトリック教会の宗教的な在り方について改善を促そうとしていただけであり、何も当初から自前の分派を立ち上げようとしたわけでなければ、ヨーロッパ中を宗教分裂(シスマ)に巻き込むつもりも無かった。事実、破門によって已む無く成立したルター派は、英国聖公会に次いで教理や典礼の面でカトリック教会に近く、リベラルな多数派はローマ教皇庁との和解も大きく進んでいるのである。

言い逃れ
免罪符を持っていれば、告白などの手続きなしに罪が許されることから、転じて「持っていると、罪を責められなくなる」属性を「免罪符」ということがある。

具体例はあえて挙げないが、たとえばある人物・団体が何らかの逆境にあれば、その人物・団体が必要なことができなかったり、するべきでないことをしたとしても、その逆境のせいにしてしまえるのである。

このとき「その人物・団体はその逆境を免罪符にして(好き放題やって)いる」といった表現で用いることが多い。

確かに逆境にある者に対しては一定の配慮は必要であるが、無制限に許しが得られるはずもなく、ましてや自らの逆境を理由に他者に危害を加えることが正当化されるはずもないのである。



十字軍遠征

第7回、最後の十字軍遠征









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更に詳しくは 下の方で

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日本侵略計画の挫折raberu4

一つのキリスト教文明の輝かしい勝利は、ほとんどいつでも、
他の一つの文明の悲劇であった。
 それはアメリカ大陸の歴史にもっとも生々しく刻まれている。
しかし、考えてみれば、インディオたちは日本人の代わりに
犠牲になったと言えるかもしれない。
 なぜなら、コロンブスは大西洋を西へ西へと航海を続ければ、
やがて「黄金の国」ジパング(日本)へ着くことを信じていたからである。
もし、予期しなかったこの大陸がヨーロッパと日本の間になかったら、
そしてコロンブスが予定通り、日本に到着していたら、
日本の歴史はどうなっていただろうか
 始めてインディオの人々を見たその日、彼の航海日誌に書いたように、
コロンブスは日本人を見て、やはり「容易にキリスト教徒になるであろう」とか、
「彼らは良き使用人になるであろう」とか書いたであろうか。

ポルトガルとスペインは半世紀ほど遅れて戦国時代の日本にやってきた。
イエズス会の日本巡管区長ガスパル・コエリヨは
「(フェリペ)国王陛下の援助で日本六十六国すべてが改宗すれば、
フェリペ国王は日本人のように好戦的で怜悧な兵隊をえて、
一層容易に中国征服を成就することができるであろう」と
軍隊の派遣を要請しているが、もっと冷静な観察眼をもっていた
日本巡察師ヴァリニャーノは、一方では、日本はポルトガルの
征服圏であるからスペイン人は手を出すな、とクギをさしながら、
他方では、日本の「国民は非常に勇敢で、しかも絶えず訓練をつんでいる」ので
征服は不可能である、などと書き残している。
いずれにしても、アメリカ大陸と違って、宣教師たちの初期の華々しい
成功にもかかわらず、やがて豊臣政権や徳川政権の激しいキリシタン迫害政策に出会い、
彼等の日本侵略計画は完全に挫折するのである。

そして、二百年の鎖国平和のなかで、「キリスト教を否定した野蛮国」日本の文明は
一つの黄金時代を迎える。近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉、菱川師宣、
関孝和、青木昆陽、石田梅巌、喜多川歌麿、十辺舎一九、上田秋成、伊能忠敬、
広重、滝沢馬琴、式亭三馬、市川団十郎、葛飾北斎、尾形光琳、吉田文三郎、
賀茂真淵、本居宣長、平賀源内、鈴木春信、杉田玄白、与謝無村、間宮林蔵、
会沢正志斎、吉田松蔭、その他多くの人々によって、
日本の芸術や学問は優れて独創的な発展を経験する。

もし日本がスペインやポルトガルに征服されていたら、
「日本文明」という名で現代人が思い出せるものは、
あの偉大なアステカの遺跡とは比べものにならないほどみすぼらしい、
城跡の石垣だけというようなことになっていたかもしれない。
少なくとも、日本文明が今とは似てもにつかぬものになり果てていたことは
疑う余地もない。


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キリスト教は戦争システムに組み込まれています。


第二次大戦中、
アメリカ合衆国のプロテスタントやカトリック教会の司教達も日本への原爆投下のために尽力した。
イエズス会士のグンドラハ(G. Gundlach: Die Lehre Pius Xll zum atomaren Krieg, 1959) が
法王ピウス12世の原爆戦争についての意見をまとめ、出版された書籍は
「原爆戦争そのものは不道徳的ではありません。。。。どうせこの世は永遠には続き ません。。。
我々人間は世の終わりには責任はない。。。
神の摂理でそういう結果に導かれてしまいました。」等々カトリック教の悪徳とも言うべき内容です。

1945年8月5日、
パイロットが自分の母 親の名前を命名したB29爆撃機「エノラゲイ」がティニアン島から離陸する直前、
牧師が、「あなたを愛する者の祈りを聞き届けてくれる全能の神よ、お願い です、あなたの天の高さに向け、
我々の敵と戦う乗組員を守って下さい。。。これからも我々はあなたを信頼しながらこの世の道を歩みます。。。
(全テキス ト: H. Gollwitzer "Die Christen und die Atomwaffen"1957からの引用)」と祈りました。

アメリカではつい最近まで、聖書を教科書に核を扱う将校に対して、核兵器の使用を正当化する聖戦論が
牧師によって講義されていました。
https://the-liberty.com/article.php?item_id=2559

^_^キリストが表面は平和を装っても本質は暴力的な二枚舌の宗教だからです。

キリスト教の神ヤハウェは戦争の神であり聖書には皆殺し命令満載です。

●殺せと神が命じるとき
http://www.j-world.com/usr/sakura/other_religions/divine_murder.htm...

そのためにヤーヴェの共同体に災いが下ったではないか。直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。
男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、
あなたたちのために生かしておくがよい。」
(民数記 31章14?18節

更に、キリスト教では異教徒は異教徒というだけで罪人ですから、
異教徒は殺せという思想が繰り返し出てくるのは当然のことです。

子ブッシュのイラク戦争を熱狂的に支持したのも、熱心なキリスト教徒の人々です。

核戦争を待望する人々
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784022594860

二枚舌では、イエスの隣人愛も単なる営業トークということに成ります。

●(マタイ 5:9)
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためではなく、
剣をもたらすために来たのだ。敵対させるために来たのだ。」

●イエスの言葉
マルコ福音書16/16 新共同訳
信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は
滅びの宣告を受ける。

別の場面では、イエスは弟子たちの勧誘に耳を傾けない街は「ソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む」と
恫喝して凄んでいます。

●マタイ10:14
あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、
その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。
15はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」
ーー

●ヨハネの福音書3:36.御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、
いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。』

●知識人からの強い批判はありますがキリスト教徒はキリスト教団の神は正義と言い訳するばかりで
反省することはできません。

ノーベル文学賞を受賞した、
哲学者のバートランド ラッセルも「信じない者は地獄」の思想が、およそ人間とは思えない残酷さで、
魔女狩りや、アメリカで先住民を殺戮したキリスト教徒の行為と深い関わりがあると結論付けています。
ーーラッセル 「宗教は必要か」からの抜粋

キリスト教は、教会や信者自身が主張するような社会的、思想的、道徳的な役割も果たすものではなく、
むしろ「恐怖」と「無知」によって人間を縛り付け、多くの人々の運命を残酷な方向へと向かわせたものであり、
社会と人間の発展にとって害悪でしかないものであるという。

ー新約聖書と旧約聖書 上村静 p10
本書ははっきりとキリスト教に批判的な立場をとる。なぜなら
聖書には暴力性がまとわりついていて、その暴力を行使しているのがキリスト教だからである。
それは遠い過去の話ではなく、現在進行中のことである。


パウロの「福音」の根幹には
、死ー罪に対する罰としての朽ち行く死ーへの恐れがある。なんとしても永遠に生きたいのだ。
パウロの望む「永遠の命」とは「自分の生命」が永遠であることである。
 それは、自我の認識する「生命」の永遠への欲求、
すなわち「神のようになること」への欲求たであり、それが自我(エゴ)に発する欲求であるがゆえに、
パウロの神はその欲求を満たしてくれる因果応報の神となる。p233

000ー
非キリスト信者はたんに非信者というだけで「非倫理的」(=偶像礼拝者)とみなされ、

キリスト教は、パウロよりも少し後の時代からその文字どおりの暴力を行使して今日にいたるが、
キリスト教の歴史上の暴力は、特定の人々の恣意的なものではない。
それはそもそも「永遠の生命」の獲得というキリスト教の救済論に内在する
暴力性(エゴイズム)の顕在化なのである。
4ーー
キリスト教の露骨な暴力は、 
たまたまクリスチャンの中にも暴力的な人がいることに由来するものではなく、
キリスト教の根幹たる救済論そのものに内在する暴力(エゴイズム)の顕在化である。
その暴力はイエスな弟子たちが作り上げたキリスト神話にすでに内包されていたものであるが、
パウロはそれを倫理主義という形に確立したと言える。

新約聖書と旧約聖書 p235からp236

新約聖書と旧約聖書 上村静

世界的な聖書学の権威
ノース・キャロライナ大学宗教学部長。バートDアーマ



今日多くのクリスチャンは、過去から現在に至るまで、自分の信仰する宗教が
平和を慈しんで来たと考えている。
しかし少しでも歴史を齧ったものなら誰しも、キリスト教徒が何世紀にも渡って、
いかに暴力的て、抑圧、権利侵害、戦争、十字軍、大虐殺、宗教裁判、及び
ホロコースト(大虐殺)を助長してきたか知っている
ーーそしてその全てが信仰の名のもとに行われた。キリスト教の創造 p169

イエスの教えの上に築かれた宗教ほど、争いへの傾向が甚だしい宗教は、人類史上他に例を見ない。
イエスは、ことば通り本当に剣をもたらしたのだ。p170






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歴史的イエスの関する資料は皆無です。
 raberu3

イエスはテクトーンと言われる日雇い労働者なので文字が読めた可能性は低く、
子供の頃からシナゴーグで聞き覚えたものであり、学者のレベルにはほど遠いものだと思います。

イエスさんは、聖書について、よく触れて言及していますが、
どの程度まで事実としてあったこととして捉えていたのでしょうか?>
すべて真に受けていたと思われます。

律法など否定をすることはなかったようですが、自身により完成させるということは言われていたようですね。
新約聖書の作者が勝手にイエスの口に入れたもので、イエス自身はそんなことはいってないと思います。

イエスはユダヤ教徒なので、ほかのユダヤ人と同様に律法を重視していたと思います。

その当時のパレスチナの識字率は3%以下という研究があり、イエスがテクトーンといわれる
日雇い労働者であれば文盲である可能性が極めて高いです。
例外的に簡単な文を読むことができたとしても、メモ程度の文でしよう。

^_^聖書に書かれたイエスの言葉は、後世の創作です。

聖書の文言は子供時代からの聞き覚えである程度は知っていたでしょが!

1世紀前後のパレスチナの識字率は3%以下だったという研究があります。

地方の村ではさらに低く1%セントに満たなかったということです。

なので、イエスとイエスの弟子たちは文盲であった可能性が高いです。

「徴税人のマタイ」が実在の人物という証拠もありませんが、
簡単なメモ文章ぐらいしか読み書きは出来なかったでしょう、
(当時の徴税人は蔑まれた職業で知識人ではない無学な人物だったと思います。)

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イエス・キリストは実在したのか? | レザー アスラン, Reza Aslan,
イエスの職業は、大工もしくは建設労働者を意味する『テクトーン』だったという。これが事実だとすると、
イエスは職人、もしくは日雇労働者だったわけで、 1世紀のパレスチナの無学者の中では、貧窮者、物乞い、
奴隷よりいくらかましな最下層階級に属していたのではないかと思われる。
ローマ人はこの『テクトーン』という言葉を、教育のない、あるいは読み書きの習慣がない無学者を指す
俗語として使っていた。
イエスはその両方であった可能性がある。現在、カリフォルニア大リバーサイド校創作学科准教授
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バートDアーマン 世界的聖書学の権威 キリスト教の創造からです。
ノース・キャロライナ大学教授・宗教学部長バートDアーマン
キリスト教の創造 p88
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ローマ時代におけるパレスチナの識字能力に関する非常に綿密且つ影響力のある研究を行ったのは
キャサリン・へザーである。
彼女はあらゆる証拠を吟味した結果、ローマの支配下にあったパレスチナでは、どんなに高く見積もっても、
人口のおよそ3%しか読むことができず、しかも彼らの大多数は、都市や大きな町に住んでいたと結論つけた。
地方に住んでいた多くは文章を見ることすらまれであった。
一部の小さな町や村におけるリテラシーの割合は1%前後だったかもしれない。
加えて読み書きができる能力未につけていた人々は、ほぼ例外なく上流階級に属していた。


新約聖書
20世紀ドイツにおける代表的な新約聖書学者ルドルフ・カール・ブルトマンは、
1921年の『共観福音書伝承史』のなかで「原始キリスト教の信仰において本質的なことは、
『宣教のキリスト』すなわち原始キリスト教団によって宣教(ケリュグマ)されたキリストなのであって
、必ずしも『史実のイエス』ではない」

そもそも福音記者たちに「史的イエス」に関する興味はほとんどなかったという説である
[23]。これは、原始キリスト教史家であるブルトマンみずからが各福音書に対して
徹底的な史料批判をおこなって考察したうえで出された結論だった[23]

  


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ピサロによるインカ帝国制圧の真実           
カハマルカでの出来事は、ピサロの秘書をつとめ、帰国後に『ペルーおよびクスコ地方征服に関する真実の報告』を出版したフランシスコ・デ・ヘレスなどによって詳細に伝えられている。 それによると、ピサロは策を弄して使者を遣わし、アタワルパにカハマルカ広場での会見を申し込んだ。アタワルパはそれを受けて数万の軍勢を陣営から広場に動かすのだが、その様子は「チェス盤の升目にように色を使い分けたお仕着せを纏った一隊が、王の前の道を掃き清めながらやって来る。歌い踊るまた別の一隊が、そして金銀の冠を着けた兵士がそれに続く。その後を、多彩なオウムの羽毛で飾られ金銀の板を取り付けた輿に乗り、インディオの肩に高々と担がれた王、アタワルパが静かに進んできた」と描写されている。 ピサロは銃を構えた兵士を広場の周辺に潜ませ、片手に十字架、片手に聖書を持った従軍司祭のドミニカ会士バルベルデがインディオの通訳をともなってアタワルパのもとに進んだ。 バルベルデ司祭はスペイン人と友誼を結ぶことが神の御心であることをアタワルパに伝えて聖書を手渡すが、王はそれを地面に投げ捨て、キリスト教徒がこれまでインディオに対して行なった非道な振る舞いを糾弾した。 バルベルデ司祭がピサロの許に戻ると、アタワルパは輿から立ち上がり、戦闘の準備を部下に促した。その瞬間、ピサロはインディオのあいだを突進してアタワルパの腕を鷲掴みにするや、「サンティアゴ」と叫んだ。サンティアゴ(聖ヤコブ)はレコンキスタ(国土回復運動)の際、イスラーム教徒と戦うスペイン人を守護した聖人で、ピサロはそれを攻撃合図にしたのだ。 たちまち広場を囲んでいた火縄銃が火を噴き、馬にまたがった騎兵が突進してインカ兵は大混乱に陥った。そこに甲冑に鉄の剣を持ったスペイン人の歩兵が踊りかかり、広場にいたインディオ4000人のうち2000人を虐殺したという。インカ兵の武器では甲冑に歯が立たず、スペイン人たちは体力のつづくかぎり剣を振るえばよかったのだ。 こうしてピサロは、わずかの手勢で4万ともいうアタワルパの軍を打ち破った。虜囚の身となったアタワルパ王は、ピサロに対し身代金として膨大な金と銀を約束し、インカ帝国各地からカハマルカに続々と財宝が送られてきた。ピサロはその一部をスペインのセビーリャに送ったが、金製・銀製の容器を除いて、荷下ろしされた金は70万8580ペソ、銀は4万908マルコと記載されており、じつに3トン以上もの金がスペインに送られたことになる。当時、財が逼迫していたスペイン王室はこの貴重な工芸品をすべて融解し、貨幣に鋳造してしまった。 だが約束の身代金を払っても、ピサロはアタワルパ王を解放しなかった。アタワルパが密かにクスコに使者を送り捕縛していたワスカルを処刑したことに立腹したからとも、秘密裡にインカの残兵を集結させスペイン人に対する謀反を企てているとの噂を信じたからともいわれている。 けっきょく、ピサロはアタワルパ王を裁判にかけ、スペイン国王に対する反逆罪および兄弟殺しの罪で死罪が宣告された。異教徒の処刑は火刑と定められていたが、インカには伝統的な遺骸信仰があり、代々の王の遺骸は香を塗られて塑像(ミイラ)にされ、至高の「ワカ」として天空と地上を媒介するとされた。生前の王に仕えていた家臣たちは、あたかもそのミイラを生者のように敬いながら暮らすのだ。 アタワルパ王は自らの遺骸が焼かれることだけはなんとか逃れようとしてカトリックに改宗し、フアンという洗礼名を受けて絞首刑に処せられた。遺骸はカハマルカ広場の教会に埋葬されたが、数日後に跡形もなく消え、その行方は杳として知れない。

「インカ」末裔たちの反乱 
フランシスコ・ピサロが奸計によってインカ帝国の王アタワルパを捕え、莫大な身代金を受け取ったにもかかわらず、スペイン国王に無断で裁判を開き処刑した経緯は当時から広く知られていた。現代の価値観からすれば恐るべき暴虐だが、ここで述べたことは「征服者」たちが自慢話として記したもので、スペインではずっと冒険譚として愛されてきた。「新世界発見」というと誰もがコロンブスを思い浮かべるが、スペイン王室が支援したものの彼自身はイタリア生まれだった。2002年のユーロ導入までスペインで発行されていた1000ペセタ紙幣は、表がメキシコのアステカ文明を滅ぼしたエルナン・コルテス、裏がピサロだったことからわるように、スペインではいまもこの2人は「英雄」なのだ。 だがこのことは「歴史問題」として、スペインと中南米の旧植民地との関係に暗い影を落としている。キューバやジャマイカなどの島々は原住民が絶滅して人種そのものが完全に入れ替わってしまったが、大陸(中南米)ではいまも多くのインディオや、白人とインディオの混血であるメスティーソが暮らしている。ペルーにおいては、彼らのアイデンティティはスペインではなく「インカ」にあるのだ。 1742年、アマゾンの密林セルバにフアン・サントス・アタワルパと名乗る男が現われた。真偽はともかくとして、インカ帝国最後の王アタワルパの末裔を名乗るサントス・アタワルパはセルバの民を率いて「インカ王国再興」を唱え、シエラ(山岳部)にも同調者を得て支配者であるスペイン人に反旗を翻した。 その4年後の1746年、リマは未曾有の大地震に襲われ、多くの建物が全壊し街はほぼ破壊されつくされた。民衆はこの天変地異をインカ王の末裔サントス・アタワルパの異能によるものだと信じた。 こうして反乱は燎原の火のように広がり、事態を憂慮したスペインの植民地当局は4回にわたって追討軍を派遣したが、アマゾンの密林のゲリラ戦に阻まれて撤退を余儀なくされるだけだった。サントス・アタワルパは不敗の存在として神格化されるが、シエラの村を2日間にわたって占拠したあと、セルバに戻るとその後の消息はわからなくなった。植民地権力に征圧されることはなかったものの、その反乱はいつの間にか終息してしまった。 だが次いで1780年、新たな「インカ」の反乱に植民地は動揺する。首謀者は「トゥパク・アマル二世」を名乗るインディオの貴族で、母方の血統は1572年にクスコの広場で処刑されたトゥパク・アマル一世の系譜に直接結びついており、まぎれもなくインカの王族の末裔だった。 イエズス会士の運営する学院で学んだトゥパク・アマルは、インディオの窮状を訴えるべく法廷闘争を行なうが、それでは埒があかないことを知ってスペイン人の地方官僚(コレヒドール)を処刑し、インディオの怨嗟の的になっていたレパルティミエント(商品強制分配制度)の廃止や物品税・税関の停止、黒人奴隷の解放を布告した。 「インカ王」の下に集った6000名と推定されるトゥパク・アマル軍は植民地政府の追討軍を壊滅させ、パニックに陥ったクスコ市では、市参事会がトゥパク・アマルの要求どおりにレパルティミエントとアルカバラ(物品税)を廃止した。クスコはリマからの援軍だけが頼りで、トゥパク・アマル軍の前にいつ陥落してもおかしくない状況に追い詰められ、窮余の策としてインディオを懐柔するほかなかったのだ。 だがトゥパク・アマルはクスコ市を包囲したものの、攻撃を加えずに市参事会との交渉を選んだ。その間に強力な当局軍が到着しはじめ、トゥパク・アマルは包囲を解いて退却、わずか5カ月の抵抗ののち捕縛され国王反逆罪で極刑に処せられた。 だが反乱が本格化するのはこれからで、全アンデスでインディオたちの蜂起が始まり、とりわけアンデス南部では終息までの2年間でインディオ側の死者10万人、スペイン人側も死者1万人とされる大きな被害を出すことになる。 この大反乱において「インカ王」トゥパク・アマルはメシア化し、死者を蘇られせるちからを持ち、インカ再興の大義のために死んだ者は3日後に再生すると信じられた。 「貧者の恩人」「解放者」「贖い主」と呼ばれたトゥパク・アマルは悪徳コレヒドール(スペイン人)の放逐を唱えたが、ここで混乱を引き起こしたのがクリオーリョ(新大陸生まれの白人)やメスティーソ(スペイン人とインディオの混血)の扱いだった。 インカ帝国再興運動の本来の趣旨は彼らをもインディオの大義に統合させることだが、インディオ大衆の怨恨は暴力化し、白人のみならず肌の白い者、スペイン風の衣装を着る混血、さらには裕福なインディオも憎悪と殺戮の対象とされた。コロンブスの到来から300年を経た18世紀末にはすでの人種の混交が進んでおり、「抑圧者のスペイン人」対「被抑圧者のインディオ」という単純な構図は成立しなくなっていたのだ。結果的に、トゥパク・アマルの反乱を失速させたのは植民地当局の武力制圧よりも、クリオーリョやメスティーソの離反だった。 この「歴史問題」は1935年、リマ建都400周年を記念してピサロの故郷であるスペイン・エストレマドゥーラからリマ市にピサロの騎馬像が送られたことで再燃する。当初、この騎馬像はリマの一等地である大聖堂の前に置かれたが、市民の反発で1952年に大統領府前のアルマス広場の片隅に移された。その後、1990年代にふたたび反対運動が起こって、1998年ごろには「国民感情にそぐわない」との理由で撤去されることになった。

インディオ搾取と殺戮の植民地の実態

先日、言論誌「月刊日本」主幹の南丘喜八郎氏が、氏が発行人を務めている株式会社K&Kプレスが発行した一冊の分厚い本を持って、私を訪ねてきた。本のタイトルは「目覚めよ日本―列強の民族侵略近代史」、著者は渡辺洋一氏だ。あまりに凄い内容に、これは多くの人が知るべきだと感じ、今回はこの本の一部をここに転載する。これを読めば、航海技術を身に着け鉄砲と軍馬を持ち込みアメリカ大陸に乗り込んできた白人がキリスト教に改宗しない有色人種を獣と見なし、いかに残虐な行為をしてきたのかが分かる。
 この本は、コロンブスがカリブ海に到達してから五百年に及ぶおぞましい歴史の始まりの話だ。真偽はともかく、胸が悪くなるが、まずは一読して欲しい。
 以下、引用である。
第二章 十六世紀
第五節「惨虐と破壊への訴え―聖人ラス・カサスの報告書―」
 前述のような、動物にも劣るような残虐極まりない白人征服者や、それに連なるキリスト教聖職者たちの極悪非道振りに憤り、抵抗した数少ない良心派の人々もいました。
 その代表が、スペインのラス・カサス司教でした。ラス・カサスは当初、他の一般のスペイン人植民者たちと同道し、スペインの新大陸征服に参加した聖職者でした。しかし彼自身がこの新大陸で行われている先住民に対する白人コンキスタたちの残虐非道を目の当たりにし、無辜の民インディアスをこれ以上苦しめてはならないと考え、スペイン国王ならびにローマ教皇に直訴して、その一生をスペインの植民政策反対に捧げたのです。
 ラス・カサスの一五四二年に書かれた「インディアスの破壊についての簡潔な報告」という訴状は、キリスト教並びに文明の名の下に新世界へ乗り込んだ征服者たちの、インディオ搾取と殺戮の植民地の実態を暴露し、白人による所謂「地理上の発見」の実態を告発したものとして有名です。
 この報告書は、白人の先住民侵略虐待の状況をつぶさに記述しています。岩波文庫の染田秀藤氏の訳文の一部を掲載し、スペイン人コンキスタの暴虐振りのほんの一部を明らかにしたいと思います。


「インディアスの発見」という偉業が達成され、スペイン人達がそこに赴いて暮らすようになってから、種々様々な出来事が起きた。それは、直接目にしなかった人にはとても信じられないような、驚くべきものであった。その中には、罪のない人々が虐殺絶滅の憂き目に遭ったり、スペイン人の侵入を受けた数々の村や地方や王国が全滅させられた事、その他にも、それに劣らず人を慄然とさせるような出来事があった。
 スペイン人達は、従順な羊の群(インディオ)に出会うとすぐ、まるで何日も続いた飢えのために怒り狂った狼や獅子のように、その中に突き進んで行った。この四〇年間スペイン人達は、かつて人が見たことも読んだことも聞いたこともない、種々な新しい残虐極まりない手口を用いて、ひたすらインディオ達を斬り刻み、殺害し、苦しめ、拷問し、破滅へと追いやっている。例えば、我々が初めてエスパニョーラ島(現在のハイチ島)に上陸した時、島には三〇〇万人のインディオが暮らしていたが、今ではわずか二〇〇人くらいしか生き残っていない。キューバ島は、その距離がスペインのバリヤドリードからローマまでの距離に匹敵するくらいの(約五〇〇㎞)大きな島であるが、現在はそこには殆んど人がいない。サンファン島(プエルトリコ)、ジャマイカ島も非常に大きな豊かな素晴らしい島であったが、いずれも荒廃してしまい見る影もない。エスパニョーラ島とキューバ島の北方近くには、ヒガンテと呼ばれる諸島があり、大小合わせて六〇以上の島からなるバハマ諸島がある。その島々の中でいちばん取るに足りない島でも、セビリアにある国王の果樹園より豊かで素晴らしく、また世界中で最も気候の恵まれた場所である。かつてその島々には、五〇万人以上の人が暮らしていたが、今は誰一人住んでいない。
 スペイン人は、エスパニョーラ島の先住民を絶滅させると、今度は近隣の島の人々をエスパニョーラ島へ連行の途中で、連れてきた挙句に結局は全員を殺してしまった。同じ原因で、サンファン島の近くにある三〇以上の島も、全滅して荒れ果ててしまった。
 広大なティエラ・フィルメ(南米北部海岸地方一帯)について言えば、やはりスペイン人は、持ち前の残虐ぶりと忌まわしい行為で、その地域を荒廃させ破壊してしまった。その結果、そこには現在ひとりも住んでいないと信じている。かつてその地域には、理性を具えた大勢の人々がひしめき合って暮らし、スペイン全土にアラゴンとポルトガルを加えたよりも大きな王国が一〇以上も存在し、セビリアとエルサレム間のほぼ二倍以上(約四六〇〇㎞)に相当する二〇〇〇レグワ以上の領土が広がっていた。この四〇年間に、キリスト教徒たちの暴虐的で極悪無慙な所業のために、男女・子供合わせ一二〇〇万人以上の人が残虐非道にも殺されたのは、全く確かなことである。それどころか私は、一五〇〇万人以上のインディオが犠牲になったといっても間違いないであろう。
 インディアスに渡ったキリスト教徒と名乗る人たちが、その哀れな人々をこの世から根絶し、絶滅させるのに用いた手口は主に二つあった。ひとつは不正で残酷な、血なまぐさい暴虐的な戦争による方法である。いまひとつは、何とかして身の自由を取り戻そうとしたり、苦しい拷問から逃れようとしたりする土着の領主や勇敢な男達を全員殺害し、生き残った人達を奴隷にして、かつて人間が、また、獣ですら蒙ったことのないような、この上なく苛酷で恐ろしい、耐え難い状態に陥れ、圧迫する方法である。
 キリスト教徒達がそれほど多くの人々を殺め、破滅させることになったその原因は、ただひとつ、ひたすら彼らが黄金を手に入れるのを最終目的と考え、できる限り短時間で財を築こうとしたからである。彼らが、世界に類を見ない欲望と野心を抱いていたからである。またインディアスが余りにも豊饒で素晴らしいところで、しかもそこに暮らしている人々が非常に謙虚で辛抱強いので、彼らを隷属させるのが、わけないことであったからである。実際キリスト教徒達は、この人たちを畜生にも劣るとみなし、粗末に扱って来た。(もし彼らが、この人達を畜生とみなし扱っていたら、まだましだっただろう。)それどころか、彼らはこの人たちを広場に落ちている糞か、それ以下のものとしか考えていなかった。
 口に出すのも恐ろしくて恥ずかしい事であるが、キリスト教徒のある司令官は、エスパニョーラ島で最大の権勢を誇る王の后を強姦した。またキリスト教徒達は、馬に跨り剣や槍を構え、前代未聞の所業を始めた。彼らは村々へ押入り、老いも若きも、身重の女も産後間もない母も、ことごとく捕え腹を引き裂き、ずたずたにした。その光景はまるで、囲いに追い込んだ子羊の群を襲うのと変わりがなかった。
 彼らは、誰が一太刀で体を真二つに斬れるかとか、誰が一撃のもとに首を斬り落とせたかとか、内蔵を破裂させることができたかとか言って賭けをした。彼らは母親から乳飲み子を奪い、その子の足をつかんで岩に叩きつけたりした。またある者達は、冷酷な笑みを浮かべて幼子を背後から川へ突き落とし、水中に落ちる音を聞いて「さあ泳いでみな」と叫んだ。彼らはまた、そのほかの幼子を母親もろとも突き殺したりした。
 インディオ達は、どんなに謙虚に振舞い、我慢し、耐え忍んでも所詮、理性のかけらも持ち合わさない人々により、いずれは自分達は殺される運命にあるから、全員力を合わせてスペイン人に思う存分復讐しようと決心をした。しかし彼らスペイン人が武器に身を固め馬に跨って来るので、到底勝ち目がない。そこで馬を陥れる罠を考え、穴を掘り、先の尖った棒を埋め、その上に小枝や草をかぶせてカモフラージュした。しかしスペイン人はそれを見破り、仕返しにインディオを捕え、全員その穴に放り込み、身重な女や産後間もない女、それに子供や老人を含め、串刺しにしたインディオで穴が一杯になった。スペイン人は、それらの捕えたインディオを全員突き殺し、切り殺して獰猛な犬に分け与えた。
 さらに彼らは、漸く足が地につくくらいの大きな絞首台を作り、こともあろうに「我らが救世主と一二人の使徒を崇めるためだ」といって、一三人宛その絞首台に吊るし、その下に薪を置いて火をつけた。彼らはインディオ達を生きたまま火焙りにした。またインディオの体中に乾いた藁を縛り、それに火をつけ彼らを焼き殺した教徒達もいた。その他のインディオ達に対して、キリスト教徒は殺さずにおこうと考え、彼らの両手に斬りつけた。そうして、辛うじて両手が腕にくっついているそのインディオに向って、彼らは「手紙を持って行け」と命じた。つまり、山へ逃げ込んだインディオ達のところへ見せしめに行かせたのである。彼らはまた、地中に打ち込んだ四本の棒の上に、細長い棒で作った鉄灸のような物を乗せ、それぞれにインディオを縛りつけその下でとろ火を焚いた。インディオはその残虐な拷問に耐えかねて悲鳴をあげ、絶望し、じわじわと殺された。ある死刑執行人は、火焙りにされるインディオに大声をたてさせないようにと、彼らの口の中に棒をねじ込み火をつけた。インディオ達は警吏の望み通りじわじわと焼き殺された。ある日ひとりのスペイン人が数匹の犬を連れて狩りに出かけた。しかしその日は獲物が見つからず、彼はさぞかし犬が腹を空かしているだろうと思い、インディオの母親から幼子を奪い取り、その腕と足を短刀でずたずたに切り犬に分け与えた。犬がそれを食べつくすとさらに彼らはその小さな胴体を犬に投げ与えた。キリスト教徒たちはまるで、猛り狂った獣と変らず、人類を破滅に追いやる人々であり、人類最大の敵であった。非道で血も涙もない人たちから逃げ延びたインディオ達は、山に籠ったり山の奥深くへ逃げ込んだりして身を守った。するとキリスト教徒たちは、彼らインディオを狩り出すために猟犬を獰猛な犬に仕込んだ。犬はインディオを一人でも見つけると、瞬く間に彼を八つ裂きにした。また犬は、豚を餌食にする時よりもはるかに嬉々としてインディオに襲いかかり、食い殺した。インディオ達が数人のキリスト教徒を殺害するのは実に稀有なことであったが、それは正当な理由と正義にもとづく行為であった。しかしキリスト教徒達はそれを口実にして、インディオ達が一人のキリスト教徒を殺せば、その仕返しに一〇〇人のインディオを殺すべしという掟を定めた。
 キリスト教徒のある総督は、エスパニョーラ島のハラグヮーという王国に到達した時、三〇〇人以上の領主は総督の出頭命令に従い安心してやって来た。ところが総督は彼らを騙し、できるだけ大勢を藁造りの大きな家に閉じ込めて火をつけ、彼らを生きたまま火焙りにした。彼らは、残りの領主を全員棒で突き刺したり剣で切りつけて殺した。また、罪のないインディオ達が妻子とともに安らかな眠りについていた夜の明けそめる頃、スペイン人達は村に侵入し、大半が藁造りのインディオ達の家に火を放った。インディオ達が気づいた時には既に手遅れで、女・子供その他大勢のインディオが生きたまま焼き殺された。またスペイン人達は殺戮をほしいままにし、金を持っている者の所在地や金の在り処を白状させようと、生け捕りにしたインディオ達に様々な拷問を加え、挙句の果てには彼らを殺した。さらにそれでもなお生きながらえた者がいれば、彼らに奴隷の焼印を押した。
 一旦奴隷となったインディオ達は、誠に苛酷な状況の中で使役に使われた。スペイン人達はインディオに三アロバ(約七〇㎏)の荷物を背負わせ、それを置き捨てに出来ないように彼らを鎖に繋いだ。ある時など四〇〇〇人のインディオのうち生きて家に帰れたのはわずか六人足らずという事もあった。その他のインディオ達は皆途中で死んでしまったのである。大きな荷物を担がされたため、疲れてへとへとになったり、空腹とその苛酷な労働のため病気になったりするインディオ数人がいた。その時スペイン人達はいちいち鎖を外すのが面倒なので、インディオ達の首枷の辺りを剣で斬りつけた。すると首と胴体はそれぞれ別の方向に転げ落ちた。その光景を目の当たりにした他のインディオ達がどのような思いをしたか、想像していただきたい。
 私はキリスト教徒たちが、無数の人々を生きたまま火焙りにしたり、八つ裂きにしたり、拷問したりしているのを目撃した。インディオ達が蒙ったこのような虐殺や破壊は数知れないので、どんなに筆をつくしても言い尽くせないであろう。
 既述したように、インディオ達がもともと暮らしていた全ての村にはそれぞれ素晴らしい果樹園があったので、キリスト教徒たちはそこに居を定め、インディオ達に土地を耕作させ、彼らの乏しい食糧を奪って暮らした。キリスト教徒達はインディオに日夜休む間もなく働かせるために、老若男女全てのインディオを自分達の家に住み込ませ、さらに子供が立てるようになれば、その子供にできるような仕事だけでなく、時には到底無理な仕事もさせた。こうしてキリスト教徒達はインディオを絶滅させ、また現在生き永らえている僅かなインディオの人々をさえ酷使している。キリスト教徒達は、インディオ達に造船用の大きな板や材木を担がせて港までの三〇レグア(約一六八㎞)を歩かせたり、山へ蜜や蝋を取りに行かせた。その山でインディオ達はジャガーに食い殺された事もあった。キリスト教徒達はまるで畜生を扱うように、身重の女や産後間もない女に重い荷物を背負わせたが、今もその事態に変わりはない。
 私は断言するが、私は数えるのも面倒なほど多くの場所で、スペイン人達の手当たり次第にただ気紛れでインディオの男や女の手と鼻と耳を削ぎ落としているのを目の前で見た。
 ペルーのコタと呼ばれる村に押し入ったスペイン人無法者は、大勢のインディオを捕えた。さらに彼は、領主や頭株の人たちに犬をけしかけて彼らを八つ裂きにさせた。また彼は大勢の男女の両手を切断し、それを縄に括って棒いっぱいにぶら下げた。それはほかのインディオ達に彼の仕打ちを見せつけるためであった。棒には七〇組の手がぶら下げられていたようである。また彼は大勢の女や子供の鼻を削ぎ落とした。
 すでに述べた通り、スペイン人達は多くの土地でインディオを殺し、八つ裂きにするために獰猛で狂暴な犬を仕込み、飼いならしていた。彼らがその犬の餌として、大勢のインディオを鎖につないで道中連れ歩いていたという事実を知っていただきたい。インディオ達はまるで豚の群れと変わらなかった。スペイン人達はインディオを殺し、その肉を公然と売っていた。「申し訳ないが、拙者が別の奴を殺すまで、どれでもよいからその辺の奴の四半分程貸してくれ。犬に食べさせてやりたいのだ」と、まるで豚か羊の四半分を貸し借りするように、彼らは話し合っていた。別のスペイン人達は朝犬を連れて狩りに出かけ、昼食をとりに戻り、そこで互いの狩りの成果を尋ねあう。するとある者は「上々だ。拙者の犬は一五人か二〇人くらい奴らを食い殺したよ。」と答えていた。
 以上の事は、私が四二年間たえず目の前で、スペイン人によってそのような罪が犯されているのを見て来たものである。彼らはインディオ達の土地を荒し、奪い取り、破壊し、荒廃させてしまった。スペイン人達は、インディオ達に対して数知れない乱暴、不正、略奪、虐待を働き、そのほかこの上なく恐ろしい所業を重ね、彼らを虐殺し全滅させた。私が今まで繰り返し述べて来た事は、全てを合わせて質量ともに、以前同様現在も行われていることの万分の一にも及ばない。

 ラス・カサスは一五一四年から一五六六年に他界するまで六回にわたり大西洋を横断し、インディオの自由と生存権を守る運動の中心的役割を果たしました。
 彼は一五四一年末、スペイン国王カルロス一世に謁見し、インディオの蒙っている不正と不幸、そしてスペイン人の非道な所業を詳説した上記報告書を提出し、征服を中止するよう訴えました。この報告書は一五四六年に若干が加筆され、一五五二年に印刷に付されました。その後ラス・カサスは、一五六六年七月一八日息を引き取るまで、スペイン人が「キリスト教教化のため」という美名のもとにインディアスで不当な征服を行い、多くのインディオを殺害し、金銀を略奪したことの不正を訴え、インディオの救済に生涯を捧げました。
 しかしスペインはこの報告書を含めラス・カサスの全作品を禁書にし、スペインの保守主義者たちは、ラス・カサスによって書かれたスペイン人の残虐性は捏造された「黒い伝説」に過ぎないと主張し、その伝説を作り上げた責任をラス・カサスに帰し、「報告」の歴史的意義や史料としての価値を否定しました。


私が聞いた凄まじい人種差別、民族浄化策
 私が一九七三年二月、メキシコを訪ねた時のことであるが、現地ガイドにこの国で先住民らしき人をあまり見かけなかったので、人種構成はどのようになっているのかと尋ねたら、ガイドは都市部では先住民は非常に少なく、全体でもスペイン人との混血のメスティーソがほとんどだと答えた。それは、かつてスペイン人がやって来た時に、山奥に逃げた先住民以外、男を全て殺し、若い女性を妊娠させ、民族浄化を図ったからだと答えた。そんなことを思い起こしたこの「ラス・サカスの報告書」である。
文明を破壊し何千万人もの先住民を虐殺するとともに持ち込んだ伝染病(天然痘等)で死亡させた。こんな怖気立つような話だが、このことも全て記録されている史実だ。
 人間はここまでやるのだから、白人社会の人々は日本軍が南京で三十万人もの無辜の民を虐殺したとか、朝鮮で二十万人も強制連行し従軍慰安婦として性奴隷にした挙句殺したという話も信じてしまったのかもしれない。しかし「和を以って尊しと為す」という日本の歴史と西欧列強の歴史とは全く違う。
 我々が学んだ世界史は白人のキリスト教徒が都合良く作ったもので、戦後の日本史はGHQが捏造したものである。その意味でも、この「目覚めよ日本―列強の民族侵略近代史」という本は、真の歴史を知る上で非常に参考になると思う。是非購入して一読して欲しい。













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