第1回十字軍遠征(1096年〜1099年)第1回十字軍は、フランス諸侯と神聖ローマ帝国の諸侯たちを中心に組織されました。遠征軍による虐殺・強姦や、諸侯間での内部対立などがあり混乱を極めましたが、彼らは見事エルサレム奪還に成功します。そしてシリアを中心とした中東域にエルサレム王国、およびその周辺域に十字軍国家を建国しました。またこの頃、軍内にはおのおのの規律や目的を持った宗教騎士団が組織されます。なかでも有名なのが、テンプル騎士団やヨハネ騎士団とされています。
第2回十字軍遠征(1147年〜1148年)
しばらくの間、キリスト教とイスラム教が中東に共存する状態が続きましたが、1144年頃からイスラム勢力が再び盛り返しはじめ、いくつかの十字軍国家が占領されてしまいます。これによって1147年、ローマ教皇エウゲニウス3世の呼びかけによって、フランス王ルイ7世やローマ皇帝コンラート3世らが中心となって、第2回の遠征が決行されました。しかし当時の十字軍は、おのおのの騎士団によって権力争いがあり統率が行き届いておらず、小アジアなどの地域でイスラム勢力に敗北。第2回遠征は失敗に終わりました。
第3回十字軍遠征(1189年〜1192年)
1187年、とうとうイスラム勢力アイユーブ朝の英雄サラディンが、エルサレム王国を陥落。その後もサラディンの快進撃は続き、十字軍国家すべてが彼の軍によって落とされてしまいました。これを受けて、ローマ教皇グレゴリウス8世は、再度遠征を呼びかけます。この頃にはイギリスも参加しました。まずローマ皇帝フリードリヒ1世が出陣するも、途中地点キリキアで溺死。続きフランス王フィリップ2世、イギリス国王リチャード1世の両軍が遠征し、アッコンを奪還します。しかしエルサレム再奪還を前に、こともあろうかイギリスとフランスの間で対立が生まれ、フランス軍が途中撤退。残されたイギリス軍は、イスラム勢力のサラディンと休戦協定に踏み切ります。この協定によって、キリスト教側にも巡礼の目的であればエルサレムを訪れることが認められました。
第4回十字軍遠征(1202年〜1204年)この頃になると、聖地奪還という当初の目的は逸脱し、彼らの目的はイスラムとの領地争いに発展していきます。ローマ教皇インノケンティウス3世は、イスラム勢力の中心地エジプト占拠を目的に、遠征を呼びかけました。しかし肝心の軍事費が足らず、なんと彼らは同じキリスト教の土地である、ハンガリーと、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを征服し、戦費を調達します。その後、コンスタンティノープルにはラテン帝国が建国。結局エジプト遠征はなされずに終わりました。またこの頃には「少年十字軍」という悲劇的な運動も巻き起こります。1212年に神のお告げを聞いたというフランスの少年によって組織され、12歳以下の少年少女たちが地中海を渡りました。しかし、彼らの多くが遠征途中のアレクサンドリアで奴隷に売り飛ばされてしまいます。一説によると少なくとも700人が奴隷としてその地に残されてしまったといわれているほどです。また実際は少年少女だけでなく、大人を含む一般市民も加わっていたといわれています。
第5回十字軍遠征(1218年〜1221年)ローマ教皇ホノリウス3世の号令によってハンガリー王アンドラーシュ2世、オーストリア公レオポルト6世、エルサレム王国の国王ジャン・ド・ブリエンヌらが中心となって、イスラムの本拠地エジプトの攻略を目指しました。しかし首都カイロ陥落を目前にして、キリスト教側の内部分裂が生まれ、失敗。ローマ帝国フリードリヒ2世が援軍を送りますが、エジプト軍を破ることはできずに終わりました。
第6回十字軍遠征(1248年〜1249年)
1244年エルサレムがイスラムによって陥落され、2000人を超えるキリスト教徒が殺戮されたことを契機に、フランス国王ルイ9世を中心に第6回遠征が決行されました。イスラム勢力の中心地エジプトへ遠征するものの、首都カイロに到着する前の「マンスーラの戦い」でサラディン2世に敗北します。ルイ9世自身も囚われの身になり、莫大な賠償金によって釈放されました。