① (個人の)幸せの6個の条件
② (世界の幸せ)待ち望まれる最後の革命
③ (世界の不幸)実証された外的規範の矛盾
①幸せの6個の条件の説明をします raberu3
日本の著名な作家の言葉に
「花のいのちは みじかくて 苦しきことのみ 多かりき」(林芙美子)
とあった。花は、ぱっと咲いて、ぱっと散る。
長く残るのは苦しきことのみである──と。
人生も事実、そのとおりかもしれない。
ある哲学者は、一生の終わりに計算してみて
、楽しいことのほうが多かったか、それとも苦しみのほうが多かったか、
その結果によって幸・不幸を決めるしかないかもしれない、と語っている。
どんなに地位があり、財産があっても、幸福をつかめない人は多い。。
どんなにすばらしい結婚をしても、いつかは愛する人と
別れなければならない。 愛別離苦は避けられない。
どんなに有名人になっても、
病気で苦しみきって死んでいく人は、たくさんいる。
美しく生まれたために、かえって、人生を不幸にする人も少なくない。
いったい、幸福は、どこにあるのか。どうすれば幸福になれるのか。
これが人生の根本問題であり、永遠に追求すべき課題である。
結論的にいえば、「幸福は自分自身をどう確立するか」という問題である
立派な邸宅とか、名声といった外面的な幸せは「相対的幸福」である。
揺るぎない「絶対的幸福」ではない。
どんなに幸福そうな環境にあっても、自分自身がむなしさを感じ、
苦しみを感じていれば、不幸である。
最高に立派な家の中で、けんかばかりしている人もいる。
皆がうらやむ有名な会社に勤めていても、いつも上司から叱られ、
仕事に疲れ、味けない思いをかみしめている人もいる。
一般的に、幸福の条件というと、経済的に豊かであり、健康で、
周りの人からも大事にされることなどが、挙げられると思います。
こうした条件を、満たしているように見える人は、
世間にも数多くいるでしょう。しかし、
本当に、それで幸せを満喫しているかというと、必ずしも、
そうとは言えません。心に不安をかかえている人も少なくない。
これらは、相対的幸福であり、決して永続的なものではないからです
どんなに資産家であれ、社会の激変によって、
一夜で貧乏のどん底に陥る場合もある。
健康を誇っていた人も、不慮の事故や病に苦しむこともある。
さらに、加齢とともに、誰しも、さまざまな病気が出てくるものだ。
相対的幸福は、自己と環境的条件との関係によって成り立つ。
したがって、環境の変化によって、その幸福も、はかなく崩れる。
また、欲するものを手に入れたとしても、
自己の際限なき欲望を制御することができない限り、幸福の実感は、
一瞬にすぎない。
財などへの過度の執着は、むしろ、心を貧しくさえする。
「もし財産が人を傲慢や怠惰や無為や欲望や吝嗇(りんしょく=けち)に
ひき入れる場合には、不幸そのものとさえなる」とは、
スイスの哲学者ヒルティの警句である。
人は、財や地位、健康、名誉など、相対的幸福を願い、求めて、
努力するなかで、向上、成長していくことも事実である。
しかし、崩れざる真実の幸福は、相対的幸福にではなく、
絶対的幸福にこそあるのだ。
「絶対的幸福とは、相対的幸福の延長線上にあるものではありません。
相対的幸福の次元では、いくら不幸のように見えても、
絶対的幸福を確立することができるのです。
絶対的幸福とは、有為転変する周りの条件に支配されるのではなく
、自分が心に決めた使命、目的に向かって実践していくなかで生ずる、
生命自体の充実感、満足感なのです。
幸福は“見かけ”のなかにはない。“見栄”のなかにはない。
自分自身が実際に何を感じているか、その生命の実感の問題である。
それを前提に申し上げれば、
幸福の第1条件は、「充実」であろう。
「本当に張りがある」「やりがいがある」「充実がある」──毎日が、
そのように感じられる人は、幸福である。
多忙であっても充実感がある人のほうが、
暇でむなしさを感じている人より、幸福である。
幸せそうに見えても、朝から憂うつな気分で1日をスタートする人もいる。
朝、奥さんに叱られ「何で、こんな結婚をしちゃったんだろう」と、
ふさぎこんで1日を出発する──これでは不幸である。充実はない。
立派に仕事し、生活をし、あまった時間を「人のため」「社会のため」に
使っているボランティアの皆さん
根性曲がり”の人間が多い現在にあって、ただ相手の幸福のために、
足を運び、心をくだき、面倒を見、苦労する、これほど偉大な人はない。
これ程充実した生き方は他にないと思います
これは自分も幸福なのです。充実の中身は困難と戦う事でもあるのです
何の苦労もない幸福など、どこにもないからです。
次に
幸福の第2の条件は、「深き哲学をもつ」ことである、といいたい。
「深き哲学」を持てば、よりよく生きるための知恵が沸き、希望が沸きます
自分自身を確立する事だできます、
欲望に支配された、相対的幸福から絶対的幸福へ
一歩抜け出すために不可欠なものが「深き哲学」と言えましょう
「深き哲学」に裏付けられた、大いなる希望に生きる人には、
困難を困難とせぬ勇気がわき、パッションが生まれ
現実を見抜く英知が光を放ち始めるからです。
希望は、神が人類にのみ与えた特権ではないでしょうか
希望ある限り人生に行きずまりはない
希望に生き抜く人には堕落がない。惰性もない
成長がある、充実がある、向学がある、想像がある、連帯がある
生涯不滅の希望を持てる人こそ幸福といえるのではないでしょうか
「深き哲学」に裏付けられたおおいなる「希望の一念」こそ
絶対的幸福へ第一歩なのです
山道での道標、大海原での羅針盤、それこそ「深き哲学」なのです
幸福の第3の条件、は「信念をもつ」ことである。
何が悪か、何が善か、わからない時代になってきた。
これは世界的傾向である。
このままでは、人類は混乱と退廃に向かう以外にない。
“日本の支配者の地位をゆずろう”というような誘惑、
“父母の頸をはねるぞ”というような脅迫にも紛動されない
何があろうと、厳然と「信念」を貫く情熱は幸福の要件である。
人生の大部分の幸・不幸というものは、
物事に対する情熱をもっているか否かによって、決まるからです
一人の人間が、揺るぎない信念に立つとき、歴史をも動かせるのです
幸福の第4の条件に、「朗らか」に、生き生きと生きることである。
「いつも文句」「いつもグチ」──それでは自分も周囲も不幸である。
いつも前向きに、はつらつと生きている。
人にも「あの人と会うと元気が出る」「気持ちが明るくなる」と言われる
その人は幸福であり皆にも希望をあたえる。
いつ会っても、つまらなそうな顔をして、喜びも感激もない。
それでは、人生は暗い。
反対に、奥さんに叱られても、「何か浪花節が聞こえるな」。
子どもの成績が悪くても「将来、だんだんよくなる前兆だ」
たとえば、そういうふうに、全部、よい方向に、よい方向に、
とらえていく。その強さ、賢さ、明るさが幸福を生む。
すべてを善意で受けとめるといっても、
愚かな、お人よしになるという意味ではない。
現実をしっかり見つめつつ、よい方向に受けとめることによって、
実際にその方向にもっていくという「賢明さ」のことである。
そういう「人格」を築き上げれば、
いかなる財産よりもすばらしい人生の宝になる。
第5の条件は、「勇気」である。
勇気のある人は、何でも乗りきっていける。
勇気のない臆病な人は、人生を楽しめない。それでは不幸である。
勇気とは、本来 外に向けられるものではありません
己に勝つことなのです
弱気、憶病な人は、立ちはだかる壁に逡巡する前に
己の陰にひるんでいるんです、己の幻影に怯えているんです
心中の賊に敗れているんです
強気の人、勇気の人は
常に胸中を制覇し行くゆえに、何ものをも恐れない
なにものにもくじけない、なにものにもひるまない
ちょっよした違いなんだけど、幸福の重要な条件です
勇気につては こちらで詳しく
第6の条件は、「包容力」である。
包容力(寛容)のある人は、皆に安心感をあたえる。小さなことで人を
責めたり、いちいち騒ぎ立てたりしない、
包容力のない心の狭い人は、皆を疲れさせるし、怖がらせる。
特に人の上に立つリーダーになった時、怖がらせてはいけない。
疲れさせてはならない。
あたたかく、皆が安心して親しめる包容力がなければならない。
大海のごとく広々とした心をもつ人は自分も幸福であり周囲も幸福である。
自身の完成をめざし、社会の常識あるリーダーに育っていくならば、
知性の輝きも増していかなくてはならない。知性を磨くことを忘れれば、
社会の敗北者となってしまう、不幸である
組織、リーダー、等の参考
幸せを実現するために、個人が持つべき六つの品性を提起する。
一は充実すること
二は深き哲学を持つこと、
三は強い信念を持つこと
四は朗らかに生き生きと暮らすこと、
五は勇気を持つこと
六は寛容さを持つことである。
つまり、幸せを実現する六つの鍵である。
充実はやる気に満ちた有意義な行動、忙し
くて充実した人はつまらない人に比べて幸せである
この「良い品性」と美徳について、
全世界の 3000 年の歴史に及ぶさまざまな文化を研究した後で、
セリグマン(Martin E. P. Seligman)にアメリカの心理学者
「知恵と知識、勇気、仁愛、正義、節度と精神の卓越」
と解釈されている
アリストテレスやジョン・スチュアート・ミルなどの学者は、
幸福は人類のあらゆる行動の目的だと指摘している。
人は誰でも幸福を追求しており、人それぞれ幸福についての
理解を持っている。
ハーバート・スペンサーは
「直接的な目的としての幸福」について
「幸福の基準は常に変化する。それぞれの時代、
それぞれの民族の中においては、それぞれの階級により、
人々のそれについての見方は異なっている。
流浪の民であるジプシーは固定した家には飽き飽きするが、
スイスの人は家を持たなければ不幸と感じる。
ヘブライ人の言う天国は、『金と宝石ばかりの街』で
『豊富な穀物と美酒がある』。
トルコ人の考える天国は妖艶な美人が充満した部屋であり、
アメリカのインディアンの天国は楽しい狩猟場である
ノルウェー人の楽園は戦争や傷に対する神秘的な癒しが
毎日のようにある
オーストラリア人の希望は、死んだ後に『1 人の白人になって
6ペンス硬貨をたくさん持っていること』である。
このように個人の状況は異なっている。
ルイ 16 世は『最大の幸福』を『水門建造』と解釈しているが、
その後継者は『帝国建設』と解釈した。
商人と芸術家の雄志は決して同じではない。
もし我々が農民と哲学者の空中楼閣を比較することができるならば、
建築様式がかなり異なっていることがわかる」
一人一人の幸せに関する理解は同じではないが、しかし、
言うまでもなくあらゆる時代にあらゆる特定の環境の中で、
人々はよりよい生活に対する想像と望みを持っていることは
間違いない。
人類は今まで発展し、無数の輝かしい文明を生み出してきたが、
度々低レベルの不賢明さと明らかな愚かさもよく示してきている。
それだけではなく、プラトンと孔子以来の長い思想史における
人類社会と倫理についての探求は、根本的に超越があまりなく、
現代人の生活は相変わらず色々な葛藤と困難に面している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
幸福は、
生命の尊厳と価値、生存の実践と徳性、及び生活の調和と美という
「三つの領域」が具体的に示されねばならず、私たちが
この時代の精神的状況をしっかり認識し、
現代人の精神におけるいくつかの反射と啓示を示し
「素晴らしい人生」の理解と行動を深めるうえでの示さねば
ならない事だと思います
更に
三つの領域、四つの対応、三つの見方を順次語ります
★三つの領域
⓵生命:尊厳と価値
②生存:実践と徳性
③生活:調和と美
★四つの対応
⓵人と自然との関係
②人と人との関係
③人間が自身との関係
④究極の信仰の関係
★三つの見方
⓵我と非我
②物と心
③知と行
ーー現代人の生活と時代の精神状況ーー
現代人の生活及び精神状況についての反省は、
われわれの良く知っている話題である。
多くの学者は、それぞれの専門領域の視点から
「人類が自らにふさわしい方へと洗練していく発展モデル
及び人々が求めるより良い生活(good life)方式に基づき、
現代人の生活と精神状態に注目している。
今までなかった社会変容、特に
社会状態と社会体系の変化は各領域から人々に影響を与えている。
「二十一世初めの今において、新たな世紀の敷居の前に立っていること、
社会科学がこの新しい時代に自ら何らかの回答を提示しなければ
ならないこと、この新時代そのものが私たちを現代性から
超越させていくように導くことを多くの人々は意識している。
今、様々な用語が示している目まぐるしい多様性は、
この時代の変化に関係しているが、一部の用語
(例えば情報社会或いは消費社会)は明らかに新しい社会システムの
出現と関連している。
しかし、多くの用語、例えばポスト現代性、ポスト現代主義、
ポスト工業社会、ポスト資本主義などは、実際には、
終わりの前の事物の元の状態を表したのである」
明らかに「ポスト」というのは、ある学者がこ時代の精神状況から見た
幸福思想の「三つの領域」の社会の状態と変化の特徴に対して
強調する意識から目にするようになったのであり、
学者たちがどんな用語を使うかにかかわらず、ここで言う現代人は
伝統に相対するだけでなく、完全に西洋的意義での工業化過程でもなく、
現代に関連する人の「今」との生存状態を指すのである。
一般的に言うなら、現代性への反省と批判だと考えられる。
例えば、シュペングラーが「西洋の没落」で概括的に述べた。
フロムは、現代人と自身、自然、社会の「三種類の疎外」を指摘した。
ダニエル・ベルは系統的に「資本主義文化の矛盾」を反省した。
マルクーゼは、豊かな追求を失う「一次元的人間」に注目している。
現代人の心理的特徴を論じるとき、デュルケムは「アノミー」を
使っている。
ウェーバーは「疎外指向」を使った。フロイトは「強い不安」を使い、
パーソンズは「感情中立性」、フロムは「市場的性格」
リースマンは「他人指向」を使った など。
しかしながら、われわれは一体どういうふうに現代人の生活と
時代の精神状況を理解すればいいだろうか?
答えは恐らく現代人という概念の中にあると考えられる。
われわれは現代と現代人という概念を使う際、
往々にして伝統に相対して使うことが多い。
私達は誇りを持って現代人に独立、自由な主体性を与え、
個人の自主性に基づく極限までの解放と、これを出発点とする
自分を含めた人間関係の世界に対する征服の情熱を当然のことと考えている。
我々はこれに「現代文明」という美名を冠した。実はこれはまさに
現代人自身が克服し、回避することができない災難でもあるし、
現代人の逃げにくい宿命でもある。
関係的世界の視点から見れば、現代人はかつてない葛藤と衝突に直面している。
関係性とは対象性とも言え、人が実践している活動の中で生成され、
人の存在様式と存在の特徴を持つ属人特性である。
人は、意識した対象との間にその人にとっての現実の生活世界を築くのであり、
また、意識した対象への関係状態がその人にとっての現実の生活状態なのである。
人が生活する世界は人の四種類の基本的な対象性活動によって構成され、
人の関係の世界も「四つの対応」によって構成されています。
・・四つの対応・・
⓵人と自然との関係
②人と人との関係
③人間が自身との関係
④究極の信仰の関係
「一つ目」は、人と自然との関係である。
人と自然との関係は人間関係の世界で第一層の意味である。
人と自然との関係の状態が人間の生活世界の物質占有状態を決める。
人が人である大前提は自然に持ちえた肉体や生命で、
つまり生きていることである。
人間は生きていくには、物質の力を占めて自分の基本的な生存を
満足させなければならない。
だから現実における人は、まず、相当する物質力を占める可能性を持つ必要があり、
彼は自分のやり方により社会で生きることができる。
人と自然との関係の視点から見れば、現代人は大気や水および土壌の汚染、
気候異常、多発する災害など多くの環境問題と生態危機の世界的な難題に
直面している。
より重要なのは、現代人はすでに物質生活の便利さといかなる場合でも
たやすく物質を入手できることと、物質に頼りきることに慣れてしまったため、
すでに存在している環境問題や生態危機を抑えることができなくなる。
「二つ目」は、人と人との関係、すなわち人の社会的関係である。
人間の本質は、実際に社会関係を通じて表現されている。したがって、
現実的には、人の本質は社会性である。
「社会関係」とは、人と人との関係である。
一方、社会は人と人との関係の結果で、人は自分以外の他人との
相互作用の中で社会を形成している。
その一方で、社会は個々に先立って存在し、社会と他人の影響は、
個人の行為の根本的な指向である。そのため、
人の生活の状態はまた人と社会および他人の関係の状態によるものである。
他人 · 社会に対する認知 · 評価及び形成の態度、他人との付き合い、
コミュニケーション、インタラクティブを含め、
この基礎の上で合理的かつ有効な“主体間性”を、つまり良好な感情のつながり、
一定の信用度、適切な協力精神などを確立することができるかどうかが
含まれるのである。
情報化、電子化、ネットワーク化の急速な発展によって、
直接的付き合いをしなくても、何らの負担もなく過ごすことができる。
特に若者はますます社会的な活動を減らしてきた。現代人は、
直接会って交流することへの関心や能力を失いつつある。
「三つ目」は、人間が自身との関係、すなわち主体としての自己の、
客体としての自己状態に対する把握である。
「自己意識」あるいは「自己概念」とも言い、自己認識、自己体験、
自己コントロールを含む。人と自分の関係状態は人間関係の世界における
キーポイントである。
人はどのように自然力を得て、他人に対してどのように対処するかで、
ある程度で人が自分をどのように認識しているのかを決定する。
すなわち、自己の内在的な本性 ·欲求と自己の外部環境の中での
地位 · 特徴についての意識である。
グローバル化は、世界各国および人々の歴史的、地理的空間に基づいた
距離を大幅に短縮した。しかし同時に
社会文化の個人の日常生活の規則に対する一致性を大いに低下させた。
限界のない文化競争と高効率の生産および生活により個人の自分に対する
認知体験やコントロールをかつてない挑戦に直面させている。
したがって、ギデンスは、現代性の最も重要な結果は、
自分認知の危機と自己意識の再構築であると指摘したい。
「四つ目」は人と「神」という究極の信仰の関係である。
人は種の繁殖と信仰によってでしか永遠の生という願望を実現しえないことが
自然によって決定される。最終的に関心が向かう先は、現実での苦難を
超越する勇気を持ち、限りある生命力を超越しようとすることだからである。
現代人は「神が死んだ」と宣言した。
伝統社会の安定的な心理の禁固と精神の庇護を破った後に、
世界を網羅しようとする現代人は当てなくさまよう状態に陥った。
科学と技術は最終的に「どこから来て、どこへ行くのか」という
困惑を解決することはできず、それにつながる「存在の意味」も疑われる。
「科学技術の長足の進歩に反して、人類の内面世界の危機がひそかに訪れ、
人間の固有の自己的豊かさと生命の炎も人々が恐れる中で消えようとしている」
・・三つの味方・・・
⓵生命:尊厳と価値
②生存:実践と徳性
③生活:調和と美
(一)生命:尊厳と価値
幸福は、もちろん個人の主観的な感受性と関係しているが、
心理学では主観的な幸福感と呼ばれる。しかし、
個人が幸せを感じているかどうか、どんな状況で、
常に幸福を感じるかどうかは個人の幸福に対する理解そして何が幸福であるか、
すなわち幸福観と密接に関係するのです
この幸福思想の起点は生命である。
であるならば「深い生命観を探究しないと、
ゆったりした生活観や本当の幸福観を確立することができない」
。ここでの本当の幸せとは、「相対的幸福」に対する「絶対的幸福」であり、
物質的欲望や外部に対する欲求の満足から離脱し、
時間が経っても変わることがない、外の条件に影響されることがない、
個体の内在的躍動により常に生じる楽しさである。
この本当の幸福は生命に対する深い思慮が必要である。
では、生命を注視すれば本当の幸福を感じるのだろうか。
生命の尊厳と価値とはまさに、楽しさが日常的欲望の満足を超越し
絶対的幸福へと向かう基本な道筋ではないでしょうか。
言い換えれば、生命そのものの尊厳と価値こそが生命の追求の原点
であるべきである。
「社会体制と幸福、物質の豊かさ及び幸福感は直接つながっているわけではない。
人の生命という把握しがたい無視できない実体がそこにあると
意識しなければならない。いや、それはただの存在だけではない。
実は生命こそが全てを含む全体である。
生命の尊厳を最も優先にしなければならない」と指摘したい。
生命の尊厳は人の行動の基準と標準である。
「誰の行動も生命の尊厳に対する認識に基づくべきである」そして
「生命の尊厳を我々人間の生活目標とすべきである」
大切なのは、生命の尊厳はすべての命が尊厳を持つというわけではない、
あるいは、生命の尊厳とは完全に生れ付きのものではない。
「命を真に事実上の尊厳的存在にするためには、一人一人の努力が必要だ、
自分の尊厳に対して自分自身に責任があると言うべきだ」
生命の尊厳はただ自然に得るものではなく、ただ他人から与えられるものでもない、
個人が自己能力を高める努力を通じて実現し完成したのである。
そして、生命の尊厳の獲得は創造と関連しているのである。
「無為に生きることには意味がない。人生は創造しなければならない」
では何を創造するか、
すべての創造が必ず尊厳を持っているのだろうか。
「価値と言える唯一の価値が生命だ」
生命の価値を創造するのは創造の主要な意義と基本的な理念である。
「人の存在自体が価値を創造する可能性があると認められるが、
人の存在自体の価値は認められない」
価値を創造するのは生命の尊厳の標識で、生命の価値は生命価値の創造にある。
尊厳と価値は生命を理解する上での核心的概念であり、
生命の観点から幸福の内包を解釈する基本的な特徴でもある。
(二)生存:実践と徳性
生命の本質について、スピノザ(Baruch de Spinoza、1632-1677)は
『エチカ』でこのような命題を出した:
「すべての自在なものは存在するように努力している」
「一物が力を尽くして存在する努力は別ではなく、
それがそのものの現実的な本質である」
「一物は力を尽くして存在する努力は、いかなる特定の時間を含んでいない、
不確定な時間を含むのだ」。
ラッセルが言う今世紀最も重要なフランスの哲学者ベルクソン(Henri Bergson)は
別の方法で似たような見方をしている、生命の本質が「連綿」だと思い、
「将来へと侵入し、また前進する中で展開される過去の継続的歩みだ」
生命の本質は「存在」つまり生命を継続することであることが分かる
これは人を含むすべての生命の最も根本的な性質であり、
人のこの本質はより豊かに表現されている。
実践と徳性を通じて幸福を得ることは生存と生命の連続という意味からして、
人が避けられない道だ。
幸福は個人の実践に由来し「幸福は夢ではなく、どこからかやってくるのではなく
誰かから与えられたものではない。
それはあなた自身の堅固な心のまばゆい光の中に存在する。
自分の心を開けることで、幸せは自分から作っていく」
実践は人間の生存の前提であり根本的な道筋である。
「行動の主体性と自由性は人間の特質と言え、人の行動の方式の体系は
“文化”で“本能”ではない」では、何が文化なのか?
「英語の文化(culture)の語源となるラテン語が耕作(cultura)
という言葉であることは知られている。
人間の無限の可能性という大地を耕し、才能の芽を伸ばしゆく過程そのものが
文化に通じます。その意味でも文化とは自己を耕し、鍛えゆくことです」
実践を強調するだけでなく、生存の意味で、
徳性の実践と実践の中で徳性を得ることを強調いたします
「信念のない人は何もできない、私たちは幸せな鍛冶屋である。
意志の強い人は、運命の転換点でも自分の人生に影響を与えられると信じる」
徳性は後天的に修養されるものであり、自己に対するコントロールである。
徳性を強調するのは、「人間性において善悪が共存している以上、
それは、人間性の善の方面を自由に発展させることを重視し、
悪の方面に対しては抑制しなければならないからだ」
(三)生活:調和と美
幸福について、内面的には相対的幸福と絶対的幸福を区別しているだけではなく、
実践の上で徳性教養の理論的思考が重要であり、
現実の充足と変化に注目しなくてはならない
幸福は人生の理想であり、現実的な生活そのものであるべきです。
「幸福は遠くて及ばない場所にあるのではない。それは自分の生活の中に存在している。
自分の生活の道に存在し、自分の心にある」
私たちにとって、人であることはすべての出発点であり、同時にすべての帰結点である。
そしてさまざまな人生の態度の規範であるべきだ」。
「では、人として生きているのはどういうことだろうか ?
難しい哲学について話そうとは思わない。
険しい顔で抽象的な議論をするのは、かえって生活感情から離れてしまう」。
「人として生きているのは、兄弟や親戚や友人、近所、更に広い社会とは
まったく無関係だ。すべてを貫く本質は人である」
人の生活の世界にはいろいろな関係が含まれる。
「人は単に一つの国家における基礎的な社会的存在ではない、
人の社会と地球全体の自然界、また全宇宙に連鎖した生命である」
世界の諸関係という視点から、環境問題に関心を持ち、人と他人、
社会との調和を図らなければならない。
「人は一人では生きられない。
そして、人間の個性もおのずから完成されるわけではありません。
家族の中で、学校生活の中で、そして社会の中で、他者から触発され、
励まされ、他者との交流を通して鍛えられて、個性は個性としての相貌を現してくる。」
「人は自然・社会との環境に調和して生活することによって価値を獲得し、
自己特有の個性に従って価値の創造の中で生活し、それによって社会の文化に貢献し
もって世に生まれた本懐を遂げたと満足するものである」
「自分の幸せを他人を不幸にしてまで築いてはいけない」
真の幸福は「自他共の幸福である」、一方的に他人のためでもなく、
自分のために他人を顧みないのでもない。そのため、対話を大切にしていくしかない
国家の間だけではなく、民族の間には対話が必要である
ー三つの味方ー
⓵我と非我
②物と心
③知と行
(一)我と非我
私は何者で、どこにいるのか。それは何で決まるか。
私が何者なのかという問題についての答えは、
個体が自分や自分と関わる存在とどう向き合うかを決定し、
いかに生活するかを決める。
近代化は個人の独立と自由を前提にしており、
個体の主体性と自主性は十分に認められている。
しかし、この優越性を強調しすぎることが、様々な現代的な問題が
生じる主要な原因となることは明らかである。
そのため、現代的な危機を明確にし、根本的に解決するため、
私が何者かを再認識しはじめなければならない。いうまでもなく、
ジェームズが言った「自己は個人の宇宙の中心である」のように、
世界そして万物の中心は自己で、自分がなければ世界そして万物は
存在するのが難しい。
しかし同時に私たちも自己の本質は、関係構成の相互影響によって
互いに支え合う統一体であることをはっきりと理解しなければならない。
自分が現実的にはまず自分と他人との社会関係の中に現れ、
そしてまた現代人の自己はもっと豊かで広くなるのである。
牧口常三郎は『人生地理学』の中で
「すべての人は 3つの自覚をもつべきだと言う、
つまり、
地域に根ざした郷土民であり、
国に属する国民であり、
世界に広くつながる世界の民でもある」
と主張された。
「人は自分に対する認識は単に民族 · 人種などの伝統的な視点に
とらわれてはならない。人という共通の基礎に立ち、
良き隣人 · 良き人 · 良き地球人として共に生きていくことを促すべきである」
幸福は人生の最高の理想であり、もちろん我と非我という問題
を処理しなければならない。
「縦の面においては、われわれは自立したイメージを確立しなければならないし、
横の面では、人と人との間に世界の市民と市民の間で互いに団結し合い、
そして団結を広く普及させて大きな波にさせるべきである」
現代人の自己意識の問題をは、まさに鳩山氏の言うとおり「私たち一人一人の人は無限
の個性を持っているかけがえのない存在である、
だからこそ、自分の運命を決める権利があり、この選択の結果を負う責任の義務もある。
このような『個人の自立』の原理を重視するとともに、
それぞれの自立性と異質性を尊重し合い、互いに一致した点を追求して
互いに協力すること――
他者との共生の原理を重視すべきである。
このような自主と共生の原理、日本社会の人と人との関係だけではなく、
日本と世界の関係や人間と自然との関係に貫かなければならない」
更に、共生の精神を強調したい
本質的に現代人の自己意識の問題でも、どんな意味でも、
現代人とは自分を強調する前提で生まれてきたものだが、
しかし、
我と非我の間でますます限界が見えなくなっているのは
現代人の生命の特徴であろう。
あらゆる生命に影響を及ぼしていくこととは、
自分と社会 · 自然界 · 私たちの精神世界の「大我」を含め、
自分と自己が関係する世界の調和である。
非我と我とは明確な限界がなく、
共生という基礎の上で自己を実現し自分を完成させるものである。
(二)物と心
ある意味で、近代化は人の物への最大の解放だと言える。
現代人は生産力を最大限に占有し、最も豊かな物質文明を創造した。
しかしながら、物の視点からすると現代人はますます物質生活に依存して、
ますます物質にとらわれ束縛されている。
言い換えれば、現代人はすでに物の有効性に抵抗しえなくなってきており、
物に囲まれたことによる利便性から脱することができない。
同時に、芸術と美はますます博物館という象牙の塔に隔離され、
精神の独立性と自由性は相対的に弱くなった。
こうなると、何が幸せで、何が良い生活なのか?
現代人の幸福は必ず一定の物質面での満足と豊かさに関連しており、
必ず名利、金銭、地位に関連している。ところが、
これらの幸福は順応性を持っている、つまり、
時間が経つにつれて人々は何かの物欲によって生まれた喜びを
自然に忘れる。明らかに、本当の満足を得ることができないのである。
これではただ「相対的幸福」というだけである。
本当の良い生活は心の物への支えであり、心が物を基礎としながら
物を超越するのである。
「『絶対的幸福』とは、
いかなる苦痛もない真空状態のことでも、永遠に楽しい夢の世界でもない。
生きている人ならば、喜怒哀楽もある。しかし、
喜怒哀楽に引きずられ支配されるのではなく
あたかもサーフィンを楽々とこなすように楽しむのであり、
この領域を絶対的幸福と呼ぶ」
物を超越することで、心は自由になり、限界を超越する意義を体感で
きるのであり、意義の体験に対し自分の尊厳を得ることができる。
「人間は生きる意義を求める動物である。このような追求があれば、
どんな苦しみにも打ち負かされることはない。
このような追求がなければ、たとえ他のすべてを持っていても、
それは空虚である。心はゆっくりと死に向かうのである」
意義を体験するからこそ、人は本当に満足し、生き生きと生命の力を
獲得することができる。
物と心に関して、ギリシア人は
むしろ極めて得がたい本能の優雅さと調和を保ち続けた。
彼らは「物からのリラックス」に精神的な喜びを伴わせることを知っていた。
現代人にとっては、素朴ながらも満ち足りた状態に戻ることはできないし、
「物を話題にしただけで顔色を変える」必要はない。だから、
簡単に欲望に抵抗し、物質を拒否することはない、例えば、
贅沢品を求めているうちに、贅沢品に描かれた美しさのように人々が
贅沢品の美しさを通じて、品性のある生活を求めるようになれば
そんな追求自体も美しいことだろう。
(三)知と行
実のところ、自分や自然、他人との社会や信仰に対しても、
どう対応したらいいのか――
人は何であるべきかと人がどのようにすべきであるかという問題は、
とてつもなく理解不能といった問題ではない。
現代人にとって、何をもって良い生活とするかは容易に考えやすく、
自分はどうすべきかわからないというわけではない。
問題の根本は主観的に怠けているか、あるいは先入観 射幸心を
持っているた、一時的に達成できなくなっているのだ。
孔子が「言に於いて訥し、行に於いて敏する」と強調するのは、
知っているのにできないのが人の常で、道理は簡単でも実行するのは
容易ではないからである。
それは単に理論信仰、パスデザインだけではなく、
常に理想を実践する事で、より良い生活をしたければ、
人自身を変えて「人間革命」を行わなければならないと考えられる。
人間革命は人を人とし人間的な生活を持つうえでの根本的な方法である。
「このような人間の生命の奥から生まれ自他ともに
共同発展するはたらきを『慈悲』と呼ぶ」、
「人は宇宙の生命に含まれる慈悲と知恵を自覚して表現し、
『人間革命』を実行できる生命の存在である」
人自身を変えることから自然 · 社会 · 世界が変わっていくが、
「近年多発する深刻な自然災害を観察すると、その中には自然界と
人間の力との関係が逆転した結果だと思わざるを得ない現象が多い」。
「地球は私たち人類がそこで生きる宇宙のオアシスであり、
私たちはなんとかしてそれを救わなければならず、
壊滅させないようにしなければならない。だから、
人類の行為が自然界の営み、自然界の協調に対する影響を、
真面目にしっかり考える必要があり、自然環境に対して
危害をもたらす可能性がある行為を時代の精神状況から見た
幸福思想の三つの領域を厳しく制限するのだ」
人間革命を実現するには、教育によって人に影響を与える必要がある。
「教育の目的は人の幸福のため」。だから、「21 世紀の教育を考えるとき、
まず『社会のための教育』を『教育のための社会』に変えるべきということを
当面の急務として呼びかけたいのである」
教育の影響で人を変えることによって、人の自己の変化を促進して、
さらに人の生活と世界を変える。知者は善であり、
知って行動する者は上善であり、行う者は至上であり、行う者は境がない。
このような意味で、平和主義 · 人間主義 · 文化主義・教育主義は
例外なくすべてが幸福理念の偉大な実践なのである。
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世界の不幸について
実証された外的規範の矛盾 raberu2
キリスト教マルクス主義といった西洋の思想が「外在的規範」をもって指摘 します
人類は何度、悲劇を繰り返したことでしょう。
そうした"神"や"イデ ロギー"を特徴づ けているのは「内在
的規範」に対して
いえば,それが著しく「外在
的規範」であったということです。
/20世紀における共産主義の失敗を、文明論的な流れに沿って考えるなら、
私は何よりも「外在的規範」の挫折
と捉えたい。
とはいえ、自由主義社会に、それに代わりうるものが用意されていとは、到底いえません。
キリスト教の説く"神"や マルクス主義のいう、行動を律する規範であるというのは
イデロギーは人問の「外
から人びとの内に入り込んできたのです」
現代の最大の問題は
「知識
と知恵を錯覚しいるのる」と言えます
「知識jを「知恵」と錯覚することこそ近代の急進主義が陥った落とし穴である
といってよい。
知識イコール知恵と思い込み知識によって描き出されたユートピアへの青写真
どおりに、
強引に社会を作り変えようとしたのが、近代の急進主義の流れでした。たとえば、
目的とするゴールが、あらかじめわかっているのなら、到達するのは早ければ早いほどよい。
それを理解しないわからず屋には、多少力ずくでのぞんでも止むをえない
知識と知恵の錯覚、すなわち「知識イコール知恵と思い込み、知識によって描き出されたユ
ートピア
の青写真どおりに、強引に社会をっくり変えようと」する思考法に囚れている人が多い
そこで、ここでは、知識と知恵の問題を説明をしてみたい
世
の中 には、環境破壊、貧困 戦争 とい った問題が沢山あり、そのよ
うな課題 を何とか解決したいと勉強をする人が数多くいる。
が、そうした問題の解決
策は容易に見出せない。
そのような時にはまるで真っ暗な闇 の中を歩いているような気持ちになるものだ
しかし、 ときにそうした闇 に"光"が
さすような体験をすることもある。
その感動はすさまじい。本を読んで、また、話をきいて
「ああ、この問題の背景にはこうした社会構造が あったのか」
と知ったときの感動 、
社会科学
を学ぶ原動力はこうした感動にあるともいえるだろう。
多くの若者が、はじめてこうした感動を体験するのです
マルクス主義系の本を読んだときの事だった
マルクス、もしくはそれに関連する本を読み漁っていた。
マルクス主義の理論
の"すごい"ところは、問題の「本質」を明らかにして、
その「解決策」を示していると少なくとも感じられる ことだ。
「この問題 を生み出してい る構造はこうだ。 その構造はこうすれば変革できる!」
こうした
「科学的分析」を読んで、多くの人は、「なるほど!」と感動するわけである。
社会にあふれるさまざまな問題を知って、その不条理さに怒りを覚える。なぜこんな現実が
あるのか、また理論的には明らかと思われ
解決策がなぜとられないのかと憤りを感ずる。
それは若い 「正義感」の発露でもあったのだが、そとき、皆、知らずのうちに
「知識によって描き出されたユー
トピアへの青写真どおりに、
強引に社会をっくり変えよう」とする思考法の罠に囚われていくのです。
その態度は純粋で正しいように見えるが
、そこには大きな落とし穴が あるのです、
この点は次の 「ロゴス 中心主義」 の問題を考察することで、より明 らかになるのです。
(5)ロ
ゴス中心主義
ロゴ ス(Logos)と は、言語もしくは理性的法則を意味する。例えばマルクス主義は、
歴史の発展や社会の構造を明らかにする 「法則
」を明らか しているというが
この議論の前提には、社会の 「法則
」は人間の理性によって解明され、
言語によって表現されるという信念があることに注意しなくてはならない。
この信念を「ロゴス中心主義」 といい、その淵源を、
「太初に言(Logos)あり、言 は神と供にあり、言は神なりき」(8)(ヨハネ伝福音書第1
章1節)と
説いたキリスト教に求めたたのです 。
すなわち 、「『神の言葉 』 を一 切 の根本 とする ロゴス(言語)中心 主義は 、
キリスト教文明
の根底にある もっとも大きな特徴といってよい のです
言葉
は、はたして生々流動しゆく実在を、あますところなく写し取ることができるのか。
人聞はそうした実在を固定化してしまう
「言語の虚構性」の罠、「抽象化の罠」から、
どうしたら け出 ことができるのか一 このような「言葉の虚 構性 」に対する警戒 、
さらには
「言葉への不信」 さえもが、いまほど必要とされている時代もない。
先に指摘 したように、マルクス主義
、また社会科学の多くは、
言葉で表現される理性的法則によって現実の問題の原因を明らかにし、
その解決 策を示そうとする。
しかし、しかし、そもそも現実を 「あますところなく写し取る」
ロゴスなど存在するのか、 と思うのです
ロックは言語論で目的達成への道具と捉えていますが
私的性格を主張している以上、私的のみに限られすべてを表せないのです
又、受け取る側の多様な環境により容易に別の意味に変化してしまうのです
言葉の限界、と見ていいと思います
ヴィトゲンシュタインの私的言語論は有名だが
後に彼は
すべての言語はある社会的な機能の召使いにすぎない、と言っています
そこに言葉への絶対の信頼はありません
言葉で本質を明らかにすることはできません
それどころか言葉の落とし穴があることを発見しました
更に、これを指摘したのはゲーテです
ファウストは「太初に言ありき」に納得できず「太初に意 りき」「太初に力ありき」と言い換え、
最後
に「太初に行ありき」と翻訳してみて初めて心から安堵します。
このくだりは謎めいた含意性
におおわれており、さまざまな考察が行われてきしたが、
端的にいっ、巨人ゲーテのもっとも東洋的な側面であり、東洋的発想ではないかととらえられます。
「太初
に言ありき」 は先に述べたように、聖書のヨハネ伝福音書の冒頭にある。 しかし、
ゲーテは、はじめにあるのは
「言葉(Logos)」ではなく、人間の「行」であると考えた。
「太初に行ありき」だ。 これまでの文脈でいえば、人間の可能性、その 「行動
によって運命を切り開
いていくカ」がはじめにある。マルクス主義 のように、理論、 ロゴスがはじめにあるのではない。
人間 には不可能を可能にする力 、矛盾した具体的問題 を解決する知恵がある。 その力、知恵
の発揮から出発すべきであって、それなしに、どんな立派な理論を作ってもだめだ
こうした人間の可能性を信じ「楽観主義」への信頼にあるのではないでしょうか。
真実の楽観主義とは、なんらかの客観的条件が整うことによって可能となる"見通し"などとは次元
を異にし、無条件に成り立っ透徹した"自信"で
あり、信念"です
かのマハトマ ・ガンジーは底光りするような強靭な人格を支える根本の力も、
非暴力を行う 間の精神的な力 の 間の信頼・ つまり楽観主義でした。
「無条件に成り立っ透徹した"自信"」、また
「人間の精神的な力への無限の信頼」、
それこそが楽観主義なのです
不可能に思える状況にあっても、それを切り開いていく力
が人間にはある。
そのカを信じる"自信"の中にこそ真の楽観主義はある。「何とかなる」というのではなく、
「自分には目の前を課題をのりこえる力がる」という信念こそが、楽観主義
に違 いありません
先 に私は「マルクス主義 」が急進主義 エリート主義 外在的規範 知識中心、
ロゴス中心主義なのに対 して、「人間主義
」の特徴が、漸進主義 民衆中心、内在的規範 、知恵重視、
言語 の虚構性 自覚にあると述べましたが。
こうした、諸特徴はいま述べた一人ひとりが不可能を可能
にする力であり
矛盾した具体的問題を解決する知恵を開くことから出発しようとする基本姿勢から説明できます
まず 、漸進主義 採るべき道を示す
「完壁な」理論などなく、現実の問題は、
一つ一つ人間が知恵を働かせて解決していくしかありません。
それには、ゆっくり進むしか方法はないでしょう。
次に民衆中心,抽象的な理論を理解する者たちが 「無知な」
民衆を指導していくではなく、
一人ひとりに内在する不可能を可能とする力を開 いていくことによって、社会を変えていこうとする。
また、内在的規範
人間の「外」 にある神や理論 によって行動を律するのではなく、
すべての人間がもつ可能性 を開くことが出発点だと思います。
さらに知恵重視 矛盾
に満ちた具体的な問題を解決するのは人間の知恵です。
理論は、その助けをするに過ぎない。
先
にあげた例を用いれば、懐中電灯の光は、自らの責任で一歩一歩前進しようとする人がいて、
はじめて生かされるのです。
最後に、言語の虚構性の自覚一ロゴスで表現される理論が現実を説明し尽くすことは絶対にない。
出発点とすべ
は、ロゴスではなく、人間の「行」である。
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待ち望まれる革命 raberu1
革命にも、いろいろある。政治革命、経済革命、産業革命、科学革命、
芸術の革命、流通や通信の革命、その他、さまざまです。
それらはそれらなりに、意義があり、必要な場合もある。しかし、
何を変えても、一切を動かしている「人間」そのものが無慈悲で、利己主義のままでは、
世の中がよくなるわけがない。だから人間革命というのは、いちばん根本の革命であり、
人類にとって、いちばん必要な革命なのです。
これからの世界のいちばんの焦点です。人生観・社会観・平和観等々、
すべて新しい善の方向にもっていける精神そのものが人間革命なのです。
「人間革命」は、21世紀のキーワードであると私は信じている。
「革命」は英語で「レボリューション」。「ひっくり返す」という意味です。
急激な変化を意味している。
人間が少しずつ、年とともに成長するのは自然の流れです。
それを一歩、越えて、急速に善の方向に変わっていくのが「人間革命」です。
どんどん、よくなる。
また一生涯、永遠に、成長していける。
「ここまで」という行き詰まりがない。そのためのエンジンとなり、
原動力となるのが信仰です。
道徳の本なら何千年も昔から無数にある。自己啓発の本などもあるが、
言葉だけで人間革命でき、宿命を変えられるならば、苦労はない。
これは抽象論ではなく、一貫して現実の人間革命を追求している。
心を変革し、最高善の方向へもっていく。生きていく。行動していく。
その人間革命は、根本的には、仏の生命と一体のなかでできる。
仏と境智冥合(きょうちみょうごう)することによって、「自分を変える」力が、
自分の中からわいてくるのです。
人間だけが「向上しよう」「成長しよう」と思うことができる。
ただ流されて生きているだけではなく,もう一歩深い、
人間としての方向転換をしようと思うことができる。
いわゆる「偉くなる」というのは、社会の機構上の話です。
人間革命するとは、もっと深い、自分の内面のことです。
永遠性のものです。社会的な偉さよりも、はるかに偉いことなのです。
人間は人間です。人間以上のものになれるわけではない。
だから「人間として」の自分を変えていくことが、いちばん大事なのです。
名声で自分を飾り、地位で自分を飾り、学歴で飾り、知識で飾り、お金で飾っても、
本体の自分自身が貧(まず)しければ、貧しく、空虚(くうきょ)な人生です。
すべてをはぎ取った、いわば「裸一貫」の自分自身がどうなのか。
生命それ自体を変えていくのが人間革命です。
〇人間革命とは、確たる信念の輝きといえる。
生き方の哲学をもたず、信念なき人生は、羅針盤(らしんばん)なき船に等しい
進むベき方向を見失い、ひとたび嵐が吹ふき荒れると、
難破船(なんぱせん)のような運命をたどってしまう。
釈尊も王子であったが、一切を捨てて、裸一貫
の自分になって修行した。
人間革命です。日蓮大聖人も、その当時、社会的には最低の存在とされた
「施陀羅(せんだら)が子」(御書891ページ)であると堂々と宣言されている。
20世紀は2回も世界大戦を起こしてしまった。
何億という人たちが地獄の苦しみを味わった。
その原因は何なのか――それを考えた結論が
、「人間自身が慈悲の存在に変わらなければいけない」ということなのです。
何故 宗教は必要か