- おもろいはなし -                                   

「汝自身を知れ」

ウエストミンスター寺院に
ある聖職者の墓碑に刻まれた言葉がありますので紹介します
「若き日には、世界や国を変えたいと大きな夢を抱き
晩年には、せめて家族を変えたいと努力した、が、
結局何も変えられなかった。
いよいよ人生の幕を閉じるにあたり気付いた事は
先ず自らを変えることができていれば、
周囲を変える事も出来たのではないだろうか」、と
つまり
社会を変えるには、自らの家族から
家族を変えるのは、自らを変える
一生かかって、それが分かったのですね
しかし
その先はおのずと答えが出てきます
自身を変える事は、先ず自身を知らなければならない、と言う事です

  自分とは一体何であろうか。自己とは何か、自己というものをどうとらえるのか、
どう求めていくか、毎日をどう生きていくか。
これは、人類永遠の課題であります

 「自分自身」ということは、我々が生きていくために、もっとも大切な事柄で、
古来の哲学、宗教においても、みな「自己とは何か」ということを問題にしてきました
 「自己」という言葉は、英語では、「セルフ(self)」と言い、ドイツ語では、
「ジッヒゼルプス(sich,selbst)」というような言い方もあります、
 自分を反省して、そこで自己というものを見つめるわけです。

 この自己を知る、ということは非常に難しいことで、
私達は漢字で「自己」と書いていますが、その「自己」の「自」というのは、
元は中国で自分の「鼻」を表した言葉だったんです。
顔の真ん中に付いている? 顔の真ん中に鼻がある、
漢字というのは象形文字ですから、それを象(かたど)って、
それで「自」という字を使ったわけです。
 顔の中心にあって自分の事をいう時に鼻を指して、「私」などというわけです、
つまり鼻が顔の真ん中にあり、顔は大事なものですから、真ん中にあるんだから
非常に中心となる大事なものの筈ですが、しかし自分の鼻は見えないわけです。

 他の人の顔なり、鼻は見えるが、自分の鼻を見ることができない。ということは、
自分を見つめるとか、自分を反省する、ということは非常に難しいと言う事です
けれども、自分の存在の奥に「自己」と言われるべきものがあって、
我々の生き方を導いている、ということが言えるし。そこに示されているわけです。
 「自己」の「自」というのは、「鼻」ということなんです。
 
 従って、自分のことがよく見えないのも、そうなると当然ですが
自分で自分の鼻は見えないので、それだけに昔からギリシャ時代にも、
あるいはインドにおいても中国においても、自分ではなかなか見えない自己、
それをどう考えていくか、というので苦労してきたわけです。
 
 考えてみれば一番大事な事柄なんです、
「汝自身を知れ」ということは、
 昔ギリシャのデルフォイの神殿に掲げられていた句であるというので、
一般に知られておりますが、学者のいうところによると、
元は、「めいめいの人は身の程を知れ」という意味だったと解釈されております、
 これがソクラテスによって非常に深い意味に解釈されて、
「めいめいの人の本当の自己を探求し求めよ」というところから
哲学的な思索が深められたわけです。
 これは何もギリシャだけの問題ではなく、インドでは「自己を知る」ということは、
ある意味でインド哲学の中心課題だったわけです。
 既にウパニシャッドの中で自己を知るということが大きなテーマになっており、
その後インド哲学二千数百年の歴史を通じて常に学者が論議してきたことであります。
 
 自己というものを求めていくのに良い材料となる仏典の言葉があります
 
  「わたしには子がある。
  わたしには財がある」と思って愚かな人は悩む。
  しかし、すでに自己が自分のものではない。
  まして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
               (『ダンマパダ』六二)

              解説、、ダンマパダとは・・・法句経とか初期仏教とか原始仏典とかいわれている
                   仏典の一つで。仏の教えを短い詩節の形で伝えた 韻文のみからなる経典
 
 日本では『法句経』と知られているものですが、ここに「自己が自分のものではない」
と言う凄い表現をしいますが、非常に鋭い表現だと思います、
 これは私たち一般の生活を考えてみても、自分に何か属しているものがある、
と思うわけです。
 自分には子どもがある。あるいは自分は財産がある。こういうようなものが
自己を作り上げている。
 自己に属している。自分はそれに頼っている、と。安心だ、と。一応そう考えますが、
しかし考えてみれば、それらは自分の自己として頼ることが出来たかどうか。
 例えば子どもを如何に愛しても、この世を去る時は自分は一人で去らなければなりません。
何かの時には頼りにならない、と。それから財と言ったって、いくらお金持ちだって
その財産をあの世に持っていけるわけじゃない、
 そうするとやっぱり自己から切り離されたものです。
だから本当の意味の自己とは言えないんではないか。だから頼りにならない。
そんなら自分はどうしたらいいか。
 まず自分自身を調えるということが必要ではないか、と。そこへ思索がいくわけです。
 
 財産や、子どもにしても、すぐ自分から離れていってしまうし、自分の自由にならない。
そうしたら、物がほんとに自分のものだということはないし、だからこそ
自分というものを求めていくということが、自然と出てくるのです、
 「自己を求める」ということが、昔からいろいろな形で試みられています、
自己を知るとは何か、と。ギリシャ以来いろいろ求める方が説かれています    

 この「自己」というのを、インド哲学、あるいは仏教哲学においては、
どう表現しているかと言うと、「アートマン」と言います。
 「アートマン」というのは、英語で言ったら「セルフ(self)」という言葉に相当します、
自分自身を振り返って言及する時に使われる代名詞なんです。
 その語源をみますと、インド、ヨーロッパ語のもろもろの原語を通じて言えることですが、
「息」を意味する言葉だったんですね。 呼吸です。
元は「アートマン」は「呼吸」という意味であった。
 英語でも「アトモスフィア(atmosphere)」と言います。
「アトモス(atomos)」というのはギリシャ語に由来するんですが、やっぱり風。動く風です。
だから「呼吸」「息」というものは動く風ですから、アトモスで表現されたこともあるのです。
 ドイツ語では「アートメン」というような言葉があります。
呼吸することをアートメンといいす。そこに繋がるわけですが、
で何故そういう言葉を使ったかと言うと、「人間の自己は何だろう」とこう考えてみると、
そうすると命のある間は我々は息をしているとみたわけです。
 すると息をしているその奥に自己があるだろうと思って、それで呼吸の現象に気付いて、
それから自己を反省して、だんだん中に入っていったわけです。
そこからインドの哲学的思索が始まるわけです。
 
 呼吸がなければ生きていけないのは道理であり、一番大事なもの、一番本質的なもの、
それが自己ということになってきたかと言えますが、
その自己というものも実はなかなか大事だということは知っていながら、
先ほどの鼻ではないが、自分のほうで特に求めようとはしません。
 他の詰まらないものは求めるけれども、自己を求めるということを
なかなか私達はよくやらないわけで、その辺を中国の孟子なんかの面白い喩えがあります
 「人間が自分の持っている鶏とか、犬とかが逃げてしまうと、あっ、大変だと
言って追っかける。けれども、自分自身を忘れている。どうしたことだ」と、
まあ孟子は警句を放って反省させているわけです。

 これは仏教にも同じような喩えがあります、
「自己を求めよ」ということを一番適切に説いた、面白い物語で示していることがあります。
 それは釈迦がベナレスで教えを説いて、かつて悟りを開いたブッダガヤーの方へ歩いて行った。
途中に林があり。そこで三十人の男性がいた、それぞれ自分の奥さんを連れて来て、
楽しんでいた。遠足のようなものだろうと思うんですが。
 ところがその三十人のうちで一人だけ妻がいなかったというんです。
その人だけ寂しくて可哀想だというんで、遊女を連れて来て、それで仲良く楽しんでいた。
 そうしたら気が付いてみたら、その遊女がその相手の人の大事なものを盗んで、
こっそりと逃げてしまった。
 ああ、大変だと騒ぎ、みんながあの女はどこへ行ったかと捜していて、ガヤガヤしていた。
 そこへお釈迦様が通りすがって、「どうしたんだ」と。「いや、これこれの次第です」と。
すると、釈尊は、「何だ。君たちはそんなことで騒いでいるのか。
婦女を求めるよりは自己を求めよ。
 お前たちは自己を忘れているじゃないか」と言われた。
そこでみんなはハッと気付いて、それで釈尊に帰依するようになったという、物語があるんです。
 
 品物が無くなると、私ども一生懸命捜します。
先ほど孟子の話からも、十円銅貨を落としても捜し求めるくせに、
自分自身を捜し求めるということはなかなかしない。
 そういういろんなエピソードがあり、その中から一体自分て何か、ということを
求めていくわけです、

 いろいろ哲学とか宗教の中に非常に難しい形で自己を求めるということがよくある事ですが、
そうした哲学的なというか、非常に高度の修行が必要なような自己ではなくて、
もっと生活の中に自己を求めていくということをブッダの教えの中にあると思います、
 つまり非常に生活実践の中で自己を求めていくという、
そういう生き方を説いたのが釈尊であったと、と言えます。                 
 
 もちろん哲学者たちも自我を追求するということはやったわけです。
近代哲学というものは、「自我の自覚から始まる」と言われております。
デカルトが「我の存在を論証した」というのは有名ですが、
「自分はここで考えている、意識している、だから自分は存在する」というんでしょう。
 あの議論がまたインドでも、今から千三百年ぐらい前にシャンカラ(八世紀前半)
という哲学者が言っているんです。
 「自分はあらゆるものを疑うことができる。けれども、自己の存在を疑うことはできない。
自己を疑おうとすると、その疑っている自己というものがまたここにある。
それを否定できないではないか。だから自己、アートマンを否定することはできない」。
 ただ面白いことには、シャンカラの議論はそこからすぐ大我の存在へ飛躍するわけです。
「自己は否定できない。その奥にある大我も否定できない」と。
 
 すなわち、私たちが日常普通に「私のもの」といっている我のもう一つ奥に
本当の自己、大きい我がある」と、こういう考え方になります
 
 近代西洋哲学の場合には、個人的な自我の存在というところで止まっているわけです。
ところがシャンカラはさらにその奥へ突き進みました。
 自我の存在の証明が、その奥にある絶対者の存在の自覚というところまで進んだというので、
シャンカラの思索の特徴があるわけです。
 ただこれは所詮哲学者の議論になります。
 現実に生きている我々としては、もっと生きた意味での自己の捉え方というのが必要です。
そうすると釈尊の言葉を改めて反省する必要が起きてくるわけです。
 
 釈尊が実際的な形で捉えるといいながら、仏教には「無我」という言葉がありますが、
「無我」というのは我が無いと読めると思うんですが、
我が無いということと「我」というのは自己ですから、それを求めよということは、
「無我説」ということが仏教の根本の教えだ、とよくいわれますが、その意味は
「我執をなくせよ」と言う事です。
 我々はこの自分に執着しています。我執があります。そして欲望にとらわれている。
それを超えよう、というところから発した説です。
 だから別に我がない、という意味ではなくて、むしろ経典に説かれている教えは、
「如何なるものも我ではない。如何なるものも自己ではない」と、
そういうのがもとの意味なのです。
 だから非我説と言ったほうが正解に近いと思われます
「無我」というと「我が無い」ということですが、
それが我が無いというよりはむしろ「どんなものも我では無い」という。
それで「非我―我(が)に非ず」というふうにとらえたほうが
実践的であるということになります。
 
 先に述べた言葉で、自分は非常な財産を持っている。けど、その財産といっても、
これは考えてみれば本当の自分ではない。
 いつかは自分から離れるかも知れない。それから愛する家族が周りにいる。けれども、
死ぬ時は一人です。
 そうすると現実な意味ではそれも我であるとは言えない。
 あるいは社会的な名誉であるとか、地位とか、いろいろありますが、
それも本当の意味の我ではない、と。つまり仏教の反省はもっと内面に入っていくわけです。
 我々の存在を構成しているいろいろの作用だの要素を考えるわけです。
 例えば知覚能力というのがあります。思考能力というのがあります。意識する働きもありまね。
こういうようなもの一つ一つとってみても、それは我ではない。
またその中に我があるのではない。またそれらが我に属するものでもない、
とこういって追求して、非常に反省的にもなります。
 
 常に私どもいろいろものを考えたり見たりしながら、
「これが私ですよ」と。「我ですよ」と。あるいは「これが私のものですよ」
というふうに握り締めて、しかし握り締めてしまうんだけれども、考えてみれば、
「これが私ですよ」という私にしたって永久に持ち続けられるものでもないし、
自分で自由にもならないし、私のものと言いながら、みんな離れていってしまう。
 結局「これが私ですよ」とか、「私のものですよ」と。つまり「我である」とか、
「我のもの」とか言って握り締めるものもないから、その意味で、
「どんなものも私として掴まえちゃいけない」と。「私に非ず、私のものに非ず」
と、受け止める事になります

 つまり無常の教えと表裏の関係にあると言う事で。よく世間の人が執着するものなのです、
無常の立場から見ると、いつかは消え失せるものです。
 それは自分の死後にまでは残るかも知れないけれども、いつかは消え失せるものでしょう。
そうすると永久不変の実体であるということは言えないわけです。
 
 ところが実際に私達がやっているのは、例えば命にしても、健康にしても、若さにしても、
その他品物にしても、一旦自分のものにしてしまうと握り締めてしまって、
永遠に自分のものであれ、というようなことを常に願います。
 そして、いつも挫折するわけです、
 
 そういうような具体的に形のあるものが自己であるとか、
自分に属するものであると考えてはいけない。
本当の自己はどこにあるか、ということです。
 自己を決して仏教は否定してはいません。
自己が存在しないとは言わない。どこにあるか。生きていくための道理、筋道、
それに従って生きていく、そこに本当の自己が現れる、と。
 だから他面では、自己は自己の主である、という具合に説いて
実践的な意味で自己を理解しています。
 
  (何ものかを)わがものであると執着して動揺している人を見よ。
  (かれらのありさまは)ひからびた流れの水にいる魚のようなものである。
      (『スッタニパータ』)
 
 原始仏典の中でも一番古い時代のものですが、我が物であると執着すると
本当にアップアップしている魚と同じではないか、とこういうことです。
 
 これは考えてみれば痛烈な寸言です。
 我々は日常いろいろなことに追われてあたふたして暮らしているわけですが、
これを高い立場から見ると、水溜まりに魚が棲んでいる。だんだん水が引いて乾涸らびてくる。
やがて水が無くなりそうになるとバタバタとのたうち回ります。
そんなようなものじゃないか、と言う訳です。
 
 そう考えると「私ですよ」とか、「私のものですよ」と、本当に執着していると、
無常ですから、常に変わっていってしまう。握り締めていくわけにいかないから、
かえって欲求不満になってこうアップアップする状態になってしまう。
 本当に他人事ではなくて、少し本気になって自分の生活を振り返ってみると、
なるほどそうかなと思い知らされるほどの実感のある言葉と思われます、
 結局そうすると、「無我」と言っても決して「自己存在がない」と言っているわけではなくて、
「どんなものも私とか私のものとかというふうに執着するのをよしなさい」と。
「むしろそういう執着を離れたところに本当のキラキラした自分というものが働きでるんだ」
と、言う事だと思います。
          
 仏典の中には反対に実践的な高い意味での自己を説いています。         ★
 例えば「自己をいたわれ」とか、「自己のためを考えよ」とか、
場合によっては「自己を愛(いとお)しめ、自己を愛せよ」というような言葉もあります。
これは浅はかな自己という意味じゃなく。
「本当に人間が真実の自己を実現するように心掛けよ」ということを言っているわけなんです。
 だから仏教は決して自己を否定するどころじゃなくて、本当の自己、真実の自己を現す、
ということを説いているわけです。
 これはインド以外の思想においてもやはり多かれ少なかれ見られる事です。

 仏教は非常に実践的な形で、つまり自己を愛しむとか、自己を調えるということは、
寝っ転がっていて頭で考えてもできることではなく、実践的な形でやるし、
それからそれなりの訓練がなければならない、と言う事です
 そうしたことを自分に、道理に大変ピタッとあった自己を調えていくという説ご紹介をします、
 
  実に自己は自分の主(あるじ)である。
  自己は自分のよるべである。
  故に自己をととのえよ。
  ―商人が良い馬を調教するように。
     (『ダンマパダ』三八○)
 
 やはり自分のことは自分でやっていかないといけないわけです。
 
 結局人に頼っているというのでは、自己の本当の生き方というものを見失うおそれがあるので、
やっぱり自分のことは自分で考えて、自分を調えて生きていけ、というわけです。
 「自分を制する」とか、「調える」とかと言うと、なんか欲望は全部抑えてしまって、
窮屈な生活をしよう、というような印象を与えるけどね、修身の教えのように取られますけどね、
そうじゃなくて自己というものを考えてみると、いろいろな複雑な人間関係の中に置かれて、
我々が生きているわけです。
 周囲から切り離されて生きるということはできない。他の人から切り離される存在ではないし、
また周りの自然環境にこ我々人間が対立するものでもありません。
 むしろ我々と融合しているものです。
 そこまで思いを馳せて、じゃ本当に自己がどう生きていったらいいか、ということを考えると、
そうすると自ずから生きるべき道というものが明らかになる。
それに合致するように、平たい言葉で言うと、宇宙の波長に自分を合わせて生きていく、と。
 
 それは、何か精神修養とかというような特別なことではなくて、
勿論生き方ですから具体的な訓練は必要なんでしょうけれども、
その訓練する方向が決して独りよがりのものでなく、社会の中の自らと
一つの生き方であるとか、或いは宇宙の大原則であるとか、
そうしたものにピタッと合った形で自己を生かしていく、と言う事なのです。
 
 独りよがりの自己観念でこの世の中をみてみると、
非常に世の中を損(そこ)なっている事が分かります
 自分さえ良ければいい。しかも自分が一時の感情に委せて勝手なことをする。
他人(ひと)のことは考えない、というふうな風潮が殊にこの頃強まっています。
 
 自分勝手なことをして、私は一人偉いんだと言っているんですけれども、
実はそうじゃなくて、自分自身に勝つのが本当の勝利を得た人だ、
という経典があります。ご紹介を致します、
 
  戦場において百万人に勝つよりも、
  唯だ一つの自己に克つ人こそ、
  実に最上の勝利者である。
     (ダンマパダ一○三)
 
 老子も、「自己に勝つ者を、勝者となす」といっています。
釈尊もこう言っておりますし、
 
 「克己」という言葉はもともと中国の言葉ですが。
己に克つ。と言う事です
 
 我々の祖先は絶えず努めてきたわけですが、
インドではこの自己に打ち克つということを非常に強調して、
ヒンドゥー教でも説きますし、ジャイナ教でもこれと同じようなことを言います。
 ですから仏教でもジャイナ教でも本当に修行を完成した人は、
自分の向上に努めた人、自分を高めることに努めた人、これを勝利者と言います。
「ジナ」と申します。ジナというのは勝利を得た人、勝利者という意味ですね。
 
 戦場において千人の敵に打ち勝つよりも自分自身に打ち克つことのほうがもっと難しい。
それを成し遂げたのは偉大な人だ、と。そういう意味です。
 
 最初に話したように、自分の鼻に例えられるような自分というものは、
なかなか見えないし、追い求めようとしない。
 どうしても「勝った、負けた」と言い、他人との社会の中での勝ち負けにこだわります
「本当の勝利というのは自分に克つことだ」と。自分に克つといっても、
別に自分同士で格闘するわけじゃないし、もっと精神的な意味です。
 
 つまり。我々の意欲というものはいろいろあるわけですが。
だから時には矛盾するわけです。
 あれもしたい、これもしたい。それらが矛盾し、相克することだってあるわけです。
 その場合にどの道をいくか、とこかを整えなければいけないわけです。
 今これをしなければいけない。この次にはこういうことをする。
あの場合はこうであるべきだ、と。そういうふうに整えるということが
自己に打ち克つことになる訳です

 結局自分というものを野放図(のほうず)にするのではなくて、
やはりいろいろ考えて抑えるところは抑える面がないといけないと思うし、
それが自己に克つことであり、そして先ほど、「自己を愛する」と言ったわけです
 

 「自己を愛する」と言っても 
なかなか自分自身で考えても、とてもだらしない自分であるわけで、
そのだらしない自分であるからこそ、本当の自己を求めると言う事ですが、
その求める私がもともとだらしないので、とても難しいと思います、が、
それでも自分を大事にしていかなければいけないという事なのです、

 仏典に自己を愛するというのはどういうことか、
ということの良いエピソードがあるようでご紹介します
 確かこれはインドのコーサラという国の王様のパセーナディと王妃のマッリカー
という方との会話の中に出てきたものです
 
  思いによっていかなる方向におもむいても、
  自分よりさらに愛しいものに達することはない。
  このように他の人々にとっても自分がとても愛しい。
  それ故に自己を愛する人は他人を傷付けてはならない。
       (『サンユッタニカーヤ』)
 
 これは、ある美しい月夜に王様が宮殿の上にのぼって、
月を眺めて夜景を愛でていたというんです。
 インドの宮殿は屋根の上が平になっており、日本と違います。
 日本の屋根はこういう具合に尖っているけども、
インドの大宮殿は大抵屋根の上が平らで、
そこで休息したり寝ることもできるようになっています。
 屋上のようになっており、それで傍にお后がいる。
「ああ、今日は美しい眺めを楽しめてほんとにいいな」と、
月を愛でて王様が思わず言葉を発したわけです。
 その時に王様がお后に向かって、
「この世の中で大切なもの、愛するものはいろいろあるが、
自分より愛しいもの、自分より大切なものがあるかしら」と、
王様がお后に聞いたわけです。
 王様がそう聞いたわけは、王様のほうからお后に甘い答えを期待していたわけです。
 
 おそらく、若い、若くないも同じかも知れませんが、
愛情を持ち合っている人々の間の会話としては、やはり愛情を確かめていきたい。
「何者にもまして、あなたが一番大切であります」
という答えをやはり欲しいというのは、誰でもそう思う事でしょう。
 ところがお后は、王様の期待をはぐらかしてしまったんです。
「私にとっては自己よりも大切なものはございません。
自分よりも愛しいものはありません」と。
 
 我が身可愛や、と。 随分ドライな返事が帰ってきました。
 
 そして王様に向かって鋭くつくわけです。
「王様、あなたは如何ですか?」というんです。
 そうすると、王様もやっぱりそういう答えを言わざるを得ない。
「ああ、やっぱり自分でも考えてみると、自分が一番愛しい」と。
 そこで今度自分が愛しいということについての反省が起きるわけです。
 
 今、読んだ聖典の言葉のように、考えてみると、どちらへ向かって探し求めても、
自分より一番愛しいものはない、と。つまり誰だって我が身可愛や。
他の人だって同じじゃないか、と。そこで人と人との関係を反省するわけです。
 それならば、人に対して害を与え損なうということが一番悪いことで、
反対に人を愛し愛しむということがもっとも尊いことである、と。
これは誰にとっても同じことである、と。
 だからこの気持を人々の間で実現しようじゃありませんか、と。
そこから仏教の慈悲の教えが出てくる訳です。
 
 先ほど紹介した詞が、そうしたパセーナディ王とマッリカー王妃との間の
会話にもとづきながら釈尊が教えた言葉ですから、釈尊は、我が身可愛や、
ということはまず認めるわけで。認めたうえで、
それじゃ我が身可愛いんだから 好きなことをさせればいいのかというと、
そうではないんだ、と
 自分にとって自分が一番大切である。とするならば、
他人さまにとっても、他人さまの自分がその方には一番大切なのだ、と
言う事になる訳です。
 
 他人を自分の身に引き当てて考える。
あるいは他人の身になって考える、という事なのです。
  仏教でいう「慈悲」というものの、出発点であり、基本という事になります
 
 「慈悲」という非常に宗教的な高い徳であるという印象を与えますが、
確かにそれに違いないんですが、もとの意味は、
「慈悲」の「慈」は、サンスクリット語で、「マイトリー」と言い、
「真の友情」という意味になります
 つまり本当の友人同士が持っている真実の気持で。それが「慈」と言う事です。
 「悲」というのは「哀れみ」と言い。人と哀れみを共にし、同情する、という。
これも本質において同じことです。
 だから仏教では特に「慈悲」という言葉を説くのです。
 
 「慈悲」と言うと、身を構えて、仏さまでなければ実現できない
何か、こう他人様に何かしなくちゃいけないんだ、
といったような感じがないわけでもありません、が。
そうじゃなくて、一般の人々の間でもその気持ちは実現されていることなんです。
 例えば何でもないことですが、我々困った時に道を人に聞きます。
そうすると、その人は親切に教えて下さる。そこには損得の観念がないわけです。
 ああ、あの人は困っているから助けてやろう、という気持。
人に道を教えるということは日常互いにありますが。
実際に人間の中に具現されていることです。
 ただ、それはもっと高めて広くしよう、といのが「慈悲」という言葉です
 中国でお経として翻訳され時に、古い時代には「兼愛(けんあい)」と訳しています。
「兼ね愛する」と。
 これは墨子(ぼくし)の言葉ですが。
「広く人々をすべて愛する。それが慈悲だ」と言う事です。
 
 と言う事は、特に素晴らしく修行の積んだ方が何かするというんじゃなくて、
一人一人が生活をしている中で、他人に対して思いやりの気持をのべ、
友人の如く、それこそこうして欲しいな、と思うことを人にもしてあげる、です。
 
 中国では主として儒教の伝統が強かったので、「仁」という言葉をそれに対比して、
「慈悲」というのは「慈仁(じじん)」と訳していることもあります。
 
 そうしたことから、やはり自分というものを大切にすること、
自分に克つことでもあり、生活実践の中で理想的に百パーセントまでしろ、
というのは難しいかも知れないが、全然できないということではなくて、
むしろ身近な、できることから努力して、それを続けていくことが
自己を愛しむ道であるということかと言う事です。
 
 つまり人間の意欲はいろいろありすが、それを調和を取り、そして整えて進んでいく。
それが人のためになることでもあり、また自己を愛するゆえんでもある、
ということになると言う事なのです。
 
 それが、釈尊も、世界の人類というものの自分というものを見出していく道に
連(つら)なるかと思う訳です、
 それに関して、釈尊の最晩年の時のエピソードと、
それからそれに関連した教えをご紹介します、
 
  アーナンダよ、わたしはもう老い朽(く)ち齢(よわい)をかさね老衰し、
  人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達して、わが齢は八十となった。
  アーナンダよ。たとえば古ぼけた車が革紐(かわひも)の助けによって
  やっと動いて行くように、
  わたしの車体も革紐の助けによってもっているのだ。 
  しかしアーナンダよ、向上につとめた人が一切の相(そう)を
  こころにとどめることなく
  一々の感受を滅したことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、
  そのとき、かれの身体は健全なのである。
  それ故に、アーナンダよ、この世で自らを島とし、
  自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島とし、
  法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
         (『大パリニッバーナ経』)
 
 釈尊の般涅槃(はつねはん)で、「大いなる死」と訳されています、
八十歳になった老人となった釈尊が、ほんとに身体が弱って、
古い車を革紐で結んでやっと動いているようなもんですよ、と。
なんか如何にも老釈尊の老いや身体の不調を隠そうともしない
人柄が如実に出ている感動的なものです。
 
 釈尊は人生の最後には霊鷲山(りょうじゅせん)と言う、鷲の峰呼ばれている山から降りて、    ★
自分の故郷のネパールの方へ向かって旅をしました。
八十歳の老人の旅ですからね。道も今のようによくなかったでしょうから、
そこを弟子を連れて自分でも歩かなければならない。トボトボと歩いたわけですが、
その有様はちょうど古ぼけた車がガタピシになって、辛うじて革紐によって修理されて、
繕われて動いているようなものだ、と。これはほんとにリアリスティックに言われています。
 
非常に臨場感のある、光景がフッと目の前に浮かんでくるような経典かと思いますが、
侍者和尚として付いていわきるのがアーナンダです、そのアーナンダに向かって釈尊が、
「自らを島とし、自らをよりどころとする」と。それから「法を島とし、法をよりどころとする」と。
この「自分を島とし」というのは、次ぎの「よりどころ」と同じことです。

「よりどころ」というのは抽象的な表現です。それから「島とし」というのは具象的な表現です。
あれは元の言葉で言うと、「ディーパ」といいす
あるいは「洲(す)」と訳したほうがいいのかも知れません。
河の中洲とかいう事です、
 
インドでは洪水があると、一面に水が溢れ、山が見えません。
インドの中部地方では、一面の海になってしまいす。
人間の住むところもなくなります。
だから仕方なしにいくらか高く水面に出ている洲のところに人々は逃げて行って、頼って、
水が引くまでそこで暮らしているわけです。
このインドの洪水は途方もなく広く。向こうが見えません。
日本では洪水がいくら酷いと言ったって洪水の端は見えるわけです。やはり大陸です。
 
その辺からインドでは、私達がアップアップしながら生きているこの生活を
大きな荒海に例えているのです、
そうしたものの中にある中洲とか、島とかが、なるほど、これは動かない。
そこに辿り着いていけばしっかりとした拠り所である。そういう意味があります。
自分を拠り所とする。
先程来、我が身可愛やということは認めますよ、と。
そして自分を大切にするということは生活実践の中で他人のことを思いやりながらやっていくことが、
最初の一番基本的な形であるということです。と言うわけです
そうすると、自分を拠り所とするということは、そういう生き方を自分でしないとダメだよ、
という。いわば、ほんとに自己というものを実現していく。自己を見出していくためには、
まず自分の実践がなければダメですよ、と。そういう意味でここはみて行かなければならないのです
 
自分に頼るというのはどういうことか、と。自分というものを反省すると、
始終選択の可能性乃至(ないし)必然性に迫られているわけです。
毎日こういう生き方をしようか、ああいう生き方をしようか、どっちへ行ってもいいわけです。
選択して、そしてどっちかに決めなければならない。
そういう選択を我々はしょっちゅう迫られているわけです。
自分に頼るというのは、自分でそれを決めるわけですが、
どういう具合にして決めるかということになります。
そうすると、人間が人間として生きていく生き方の理想があるわけです。
生きていくとき道筋がある。それに従って自分が判断して決める。
だから自己に頼るということは、同時に人としての生きていくべき道筋に頼るということになる訳です。
 
それが「法」と見るのです。
 
この「法」というのは、元の言葉で「ダンマ」といいますが。
法律という意味よりはもう少し広くまた深い意味があります。
人々の生きていくべきよるべ・道筋と、そういうようなものをインドでは、「ダルマ」と
サンスクリット語で言いますが、「保つもの」という意味があります。
人と人として保つもの。人として保つには必ず道筋があるわけです。
もしもそれを乱してしまえば、人間の顔をしているけど、人でなしだ、
ということになります。
人が生きていくための決まり・法(のり)・道筋がある、と。
それを自分が体現する、と。それが自己に頼ることである、と。
その法を自覚すれば、あるいは他の人と意見が違うことがあるかもしれないけど、
自分はこう生きるのが一番いいと思って断固として進む、
ということもあるわけです。
「百万人といえども我往かん」というようなことです。
 
道筋というものがある。この道筋といっても、基本は勿論示されていると思うけれども、
十人十色の人間の社会ですから、それぞれに一生懸命自分なりの心の奥底に立ち戻って
良心的に自分の生き方を、選びとっていく。選びとっていく時に、その筋道は、
法というものに各人が一生懸命それに則っていくように努力をしていかなければいけない。
そういう努力をすることが、今の「自らをよりどころとする」ということでもある、という事です。
 
だから両方が一致するわけなんです。
そうすると、同じことを二つにわけていったような感じがするわけです。
 
自己に関していう時には、「自己に頼れ」という表現になります
それから人間の普遍的な規範というほうに目をつけていう時は、
「法に頼れ」ということになる。実質的には同じことをいうわけです。
 
「法」と言うすか、「規範」というものが、何か巻物みたいになって、
床の間に置いてあるので何の意味もないわけです、
またそういうものの道理と言い、筋道であるから、これは、人間が、というよりも、
私どもがそれを生活の中に実践しなければ働きださない道理であります、

我々の現実というものは非常に複雑なものです。いろいろな人間関係におかれています。
そして、ありとあらゆる影響を受けて個人というものが出来上がっているわけですから、
いろいろな条件を構造的に理解して、それで最後に決定を下す、と。
それはすべてを考慮しなければいけない訳です。
目を塞いで、何も見ないで、「俺はこういくんだ」といって、パッと決めるというのは、
そういう生き方では非常に現実から浮き上がってしまう。
 
「自らをよりどころとする」というのは、馬車馬のように勝手なことをするんじゃなくって、
法に則った努力をするということが自分によることで、それが先程来の、
自己を愛する道でもあるし、自己は勝利者に導く道でもある一方、
法のほうからいうと、法というものを実践するのは自分でなければならないし、と。
自己に頼るということと、法に頼るということが、二つのものを一緒にしなさい、
というものではなくて、最初から自己を頼ることは法に頼ることだし、
法に従うということは、それを実践する自己があるわけなのです、と。そうなると、
私は一人で生きているなんていうことはあんまりあり得なくなってしまいます。
 
これはあり得ないことでね。それは思い上がりです。
もう人間も他の人との連関を切り離しては考えられないし、生きていくことはできないわけです。
 
法というものの自体の中にも、さまざまな人間関係もあれば、
自然法則の中に従っていくこともあるし、なんかややもすると、私ども別に
「借金していませんよ。私、迷惑かけていませんよ」というような言い方があるんですが、
本当の意味で自分の自己を知る。あるいは自己を求めていくということは、
むしろ自分が非常に多くのものの関わりの中に置かれている、その中に生かされている、
ということをまず認識しておかないといけないわけです。
 
「私は借金していませんよ」「他人には迷惑掛けません」と言われても、
その方がそこまで到達するまでには、そういうことが言えるようになるまでには、
無数の多くの人の恩を受けてきているわけです。
それは目に見える、その方が自覚しておられる恩もあるでしょうけど、
目に見えないところで受けている恩もあるわけです。
そう思えば、それに対する感謝の気持ちが独りでに出てくる。
普遍的なこの法というものも、なんか物体みたいなものとしてどっかにあるんじゃなくて、
めいめいの人が実践し、生かすことによって、法としての意味が生きてくるわけです。
 
人間の美徳なんて言っても抽象的なものがあるわけじゃあいません。
個々の人が実践するからこそ、美徳として生きてくるわけです。
 
これは大切な問題で。よくいろいろな正しい生き方というものが教えられますが、
あるいは徳というものが説かれますが、ややもすると、それが言葉で終わってしまう。
抽象的な観念として終わってしまって、慈悲だとか、平和だとか、愛だとか、
いろんなことを言いますが、単に机の上の印刷物の活字になっていて、抽象的な観念に留まっていて、
自分の生活に戻ってこない。
それだと、自己を求めるとか、汝自身を知れ、ということにはならない。
やはり汝自身を知れ、自己を知る、ということの一番大切なことのまず第一は、
自分で実践していくということなのです。
 
その実践する場合に、人間の実践の場面というのは非常に複雑なもので。
だからいろいろな点を慎重に考慮しなければいけない。
そこで己を省みるということが必要になってくるわけです。
 
どうしても自分一人の存在ではないから、他というものとの関わり、
それが他人かも知れないし、それから歴史的な時間、空間を超えた
さまざまな宇宙の理法との関わりかも知れないし、
そうしたものの中に置かれている自分というものを考えながら、
その理法に則しながらそれぞれの生き方を選び取っていく、という事です。
 
ところがそこまで思いを致さないと、今ここにいる俺はこのように力があるんだ、と。
そして、つい自惚れてしまうわけです。
そうであってはいけない。自己というものがここにあるのは、
無数に目に見えない過去からの原因であり、条件といえるし、影響といいます、
そういうものが集約して、でここに生きているわけですから、
そこまで思いを馳せることによって本当の生き方ができるだろうと思います。
 
それが自己というものを現す道もあり、愛する道であり、結局それがもっと俗な言葉で言えば、
幸せというものに繋がる幸福感、本当の幸福感というものに繋がる道であると言えます
汝自身を知るということもポイントになろうかと思います。





         続いて、究極の法則       












 
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