- おもろいはなし -  


生命を解明するため 古来より 多くの科学者 文学者
 詩人 哲学者 宗教家が あらゆる方向から挑んでおります
 その中で 最も分かり易い 仏教の十界論 を紹介いたします  

仏教の生命論は深く    
生命活動を 立体的 流動的にとらえた十界互具論
生命の機能 本体 可能性 を説いた十如是論
個性化の原理を説いた  五陰世間
深層を解明した 九識論  があります


 十界論とは
十界論は生命観と言う生命の我の主体的な実感を柱として成立しています
この点のみを見れば 主観的カテゴリーと考えられます
しかし その生命観と言う主観的なものをとらえた基準は客観的なものです
このように 主観と客観の上に展開されたものであるがゆえに
十界論は いかなる人といえでも その見事さに
心の底から納得せざるを得ない 生命哲理なのです


生きる目的とは

人類は 太古の昔から 
賢人 聖人 哲人 宗教家 歴史学者 芸術家が
生涯をかけて 追い求めてきた究極の課題です
「何のために生きるか」

生きる目的とは
殆どの人の思いは・・・幸福になるためです
幸福とは・・・満足であり 心は歓喜であり、充実です
そして「夢」をもち続けられる人も幸福です

幸福や歓喜の中でも 
一時の歓喜(相対的幸福)と (絶対的幸福)とがあります
相対的幸福は いつ崩れ去るか分かりません
又 何処まで追い求めても きりがありません
では 
絶対的幸福とは大歓喜とは 本当の充実とは、いかなるるものなのか
いかにして手に入れる事ができるのか

 参考→ 幸福の条件  


ソクラテスは 「汝自身を知れ」 と言います
すべてを知り尽くした哲学者の結論です
すなわち 汝自身を知る事が大歓喜であり絶対的幸福
を得るための条件とも言えます  
汝自身を知るとは
生きると死ぬ の法則 生死の法則を知る事と一応結論できますが
汝自身がいかに大切であるかを知る事でもあります

すなわち ソクラテスの「汝自身を知れ」の結論が 今回の出発になるのです
 参考→汝自身を知れ
  参考→ソクラテス

-①-

 この世には 様々な数え切れない程の法則があります
絶対と言える 万有引力の法則 アルキメデスの法則 物質不滅の法則
 電機関係の人におなじみの フレミングの法則 オームの法則
等があります
 中には 北の偉そうな将軍様が作った いいかげんな法則や 
面白い「マーフィーの法則」などもあります
 憲法もあれば道交法もある
国会では 今でも新しい法を作り続けています

 しかし 数ある法則の中でも  自分の一生を左右し
密接にかかわり続け 逃れる事ができない 
大事な 究極とも絶対とも言える法則が二つあります
一つは 原因と結果  (因果の法則)
もう一つは 生きると死ぬ(生死の法則)

 いかなる科学者も思想家も いかなる財閥も権力者も
聖人君子も この2つの法則に逆らう事も逃れる事もできないのです
この 何よりも大事な法則を 真っ先に学ばなければならないのです

科学の世界でも生命物理学の研究でも あり得ない生命の姿に
想定 仮定の領域を ありのままの姿を示すだけで 答えが出ません
地球の誕生も、生命の誕生もあり得ないのです
最大の非常識なのです
何らかの意志が働いた、と言った方が現実的です
  参考→宇宙人  
科学者が 宗教を否定しない理由の一つが ここにあります
どんな理論も数式も、完成の見込みは限りなくゼロなのです
何らかの手が加わった、ありのままを受け入れる、とか
科学者らしからね意見を言うのです
世界的にも有名なニューヨーク市立大学の理論物理学のミチオ・カク教授は
「神は実在し、しかも数学者である」と断言しています
 参考→ミチオ。カク教授  

この大事を教えるべき 聖職者は 無知であるばかりか 
保身のために都合よく解釈し 宗教に疎い信者をコントロールしています
  現代文明は「死を忘れた文明」と言われるのです
世界の抱える大きな問題も、この死と言う問題を
避け、無視、タブー視する所に、解決の道が開かれないのです
  参考→ 死とは  
 因果と生死の二法 を正しく知らない事は 無視する事は 
夢遊病者のように 徘徊老人のように 
自分は何処から来て 何処へ行こうとしているのか 
自分は何をしようとしているのか 分からないのと同じだと思えるのです
 羅針盤の無い船が 大海原で漂っているのと同じです
山で 道標を無視しているのと同じです
狭い 暗い 洞窟の世界から 一歩も外へ出ないのと同じなのです

 こう 最初に結論を言い切ると 感情的に 反発する方や 
文句を言いたい方も 大勢いらっしゃると思いますが
何故かを 分かり易く ご説明いたしますので お待ち下さい

 プラトン    
の話だったと思うが
 生まれてから今に至るまで 囚われて洞窟で生活している人達に
「青い空と緑の大地」の話をしても 誰も信じないのです
「太陽」の存在など 想像さえできないのです
この人達は 壁に映る白と黒の影と 岩に生える茸と 
こうもりのギャー と言う泣き声がすべての世界なのです
それが自然であり 常識であり 普通なのです

 誰かが「さあ 外の世界を見てみよう 
七色の花に小鳥の囀(サエズ)り 
太陽に照らされた大自然を」と さそっても
皆 話を聞くどころか 外の世界を語る人は皆から 
バカにされ きちがい扱いにされ 迫害も受けるのです

 歴史上現れた 賢人 哲人、偉人 聖人の多くが迫害されたのと
同じ方程式です
 高い山は 常に風当たりが強いのです
歪んだ社会では 正論を言う人を 嫌うのです
常識が 非常識となるのです
一度抱いた常識を先入観を思い込みを捨てて 賢人の言う事を聞く事はないのです 

 普通の人に「因果と生死の二法」を正しく理解してもらう事は
・ 紙芝居しか知らない人に 4Kテレビを理解してもらうように
・ 火の見やぐらしか知らない100年前の人に 
  東京スカイツリーの高さを説明するように
・ 荒川の土手しか知らない人に ヒマラヤ登山を教えるように
 難しい事なのです
推し量る基準(ものさし)がないからです
自分の知識 経験からは創造さえできないのです 
 当然 重要性も理解できず 自分の一生を左右する事なのに
今の私には関係ない と思うのは当然です


 因果(原因と結果)は安全の法則 
生死(生きると死ぬ)は幸福の法則
因果は信ずる  生死は演ずる
 又々結論を言ってしまいました  あしからず
更に 結果を変える「縁」も理解しなくてはなりません
  参考→「縁」とは  
 不思議なもので 人は因果(原因と結果)を無視した 
非科学的な 奇跡とか 偶然とか 神のお告げとか 
裏付けの無い予言とか 占い、おみくじ、ハルマゲドン、とか 
単なる金儲けの お払い 厄払い お守り 霊感とかを
簡単に信ずるのです
 科学的 論理的 妥当性 裏付け等に 
何の疑問をいだく事もなく。園児のように
 そう言うものだと 錯覚しているのです 

 たしかに 現代の科学ではまだ解明されていない
説明できない 不可思議な現象は多くあるのはたしかです
いや、この世のその殆どが不思議なのです
量子論等、分かると言う人がいたら、詐欺師だ、とまで言われます
 だからと言って「天の声を聞いた」とか霊感があるとか 
守護霊と話したとか
  何と人間は単純なんだろう と思わずにはいられません
 
 統計学的に云々ならば 手相や人相等でも
ある程度の確立で 当たる場合もあるでしょうが
陰陽道でも 論理的に正しい場合もあるのです
しかし 人生を賭ける人は少ないでしょうが、危険です

 そして最も科学的な 普遍妥当的な 絶対ともいえる
因果の法則を語る人の言う事を 聞かないのです
信じる人は少ないのです
 どうでも良い事に お金や時間や命を使い 
大事な(生と死)の問題に関心を示さなのです 
何の疑いもなく 宗教にまかせっきりなのです

   参考 → 何故宗教?   


-②-

宗教のの歴史

ここで 少し 確認しておきたいのです
  昔、人は禽獣と変わらず、善悪の判断も無く、親を敬う事も、
恩を感じる事も無く生きていたのです
 やがて、その地の象徴的存在の神が生まれ、集団生活の規律が生まれ
道徳が生まれ、高度な宗教が生まれ、人間らしくなっていったのです
特に、キリスト教にしても 仏教にしても 哲学 儒教にしても イスラム教でも
そな基本は正しいのです、生命の尊厳が説かれているからです
 普遍的な心理を含むものがあり、
人間の捉え方にしても、事物の本質の掘り下げ方にしても、
万人が納得いくものがあった、と言えます
 もし 人類文明にこれらの宗教 哲学が無かったら、文明の発展は遅く 
人間の知恵はいかにも底の浅いものになっていただろうと思われます
 
 当初 宗教 哲学は人間のためにありました
人間を救う事や 強く 善く 賢くするのが目的でした
しかし 歴史は逆でした
それは 聖職者 僧侶の堕落が原因で宗教が悪いのではありません
  聖職者や僧侶は 特権階級のように振る舞い 時の権力者と結託し 
宗教を仕事にし 十字軍に象徴されるよう戦争をはじめるのです 
日本とて同じ事です 源平合戦の発端の保元の乱は坊主です
  宗教は悪くなく 正しいのです
  参考→キリスト教&仏教
しかし 今の社会 原始宗教に憧れ 高度な精神文明を学ばず 
時代を太古の昔に戻してしまった感があります

話を戻します

-③- 
この世は科学です 原因のない結果などあるはずがない 
奇妙に見える現象にも 原因があるのです
 この世は生死です 死なない物などあるはずがないのです 
大宇宙を含め生死生死の繰り返しです
 これが 時空を超えた 大宇宙の絶対の法則であり 
生命の絶対の法則なのです
そして その法則を知る事は、なににもまして重要だと思います 
壮大な夢と充実と歓喜を手に入れる事ができるのです
ここが出発であり終着なのです
 
 お断りしておきますが 現代科学でも 説明不能な現象 結果
は、何処にでもあります、それを承知した上で 話を進めます 

     
 因果(原因と結果)  生死(生きると死ぬ)  
   ↓         ↓        
安全の法則  →   求める  →  学ぶ
   ↓         ↓      ↓
 絶対の法  →  幸せの法則 →  学ぶ
   ↓         ↓      ↓
  信ずる   →    演ずる   →   学ぶ          
   ↓         ↓      ↓                 
   歓喜   →   歓喜   →   歓喜 → 大歓喜(悟り)  

  簡単な図面を 分かり易くと思い 書いてみました  
かなりおおざっぱで 異議のある方も大勢いらっしゃる事と思いますが
承知の上で 
 すなわち (信ずる.演ずる.学ぶ)ができれば歓喜に至ると言う事です
「青い空と緑の大地」を初めて見る事ができるのです
最終目的が 大歓喜です
歓喜が相対的幸福に対し、大歓喜は絶対的幸福と言えるかもしれません

人生の目的は幸福です 充実です、幸福は歓喜です

 その人の幸福は歓喜は、実に分かりにくいのです
 ベートーベン
の(第九)歓喜の歌は有名です
同じようにあの第5番(運命も 第6番(田園)も
歓喜で終わるのです
 まあ 私が好きな曲だから たとえで言います
 しかし 見た目では彼の何処にも歓喜は見当たらないのです 
不治の病と戦い 世の不正に怒り 生涯貧乏です
 だが 透徹した芸術家は 人間が最終的に求めるものが
目的が 歓喜である事を悟ったのです
 まあ 曲の構成から 苦しみを乗り越えて 歓喜に至る
と言う事ですが
 苦しみを乗り越える方法を語るのではありません
更に その奥にある 根本的な生命の歓喜を語るのです
 参考 → ベートーベン

 変な たとえを多用しますが 分かり易くと思い あしからず 

 先ず→ 何故 安全の法と言うのかです 
この一部でも知れば安全性が高まるからです
 たとえて言えが 徘徊老人に 赤は止まれ 青は進め
と言う 簡単な 道交法を教えるだけで 安全は増すのです

 次に因果を 「絶対の法則」と言ったのは 先に説明した通りです
(この世は科学で 原因のない結果などあるはずがない 例外はない)
と言う事です
 もちろん最初にお話しした 因果の法則以外に 
様々な法則があるのは承知の上です
 また 結果は絶対に変えられない と言うことではありません
科学でも、何かを入れると、結果が変わるのです
そこに介在する 縁の存在が重要になりますが 
この説明は後で 
 
 道交法なら逃れられる事もあるでしょう 国法でも抜け道があります
しかし 因果の法は おまけも無ければ割引もないのです 
もちろん例外など絶対にありません
ミクロの世界もマクロの世界もですが 生命そのものとなると 
それはあり得ないのです 科学では解明不可能と思われます
         これは 後でくご説明します

-④- 
次に→ 信ずるとは 道交法は見えないのです しかし厳然とあるのです 
条文に書かれていても 信じて初めて有効となるのです
 赤信号で道路をわたるとどうなるか 
事故にあってから信ずるのでは遅いのです
 因果の法則も見えないのです 実験をすれば例外なく答え(結果)が出ます
その理論を100年間 研究し 納得するより 信ずる方が早いのです
だから因果は信ずると結論したのです

 又 信は知恵を生み出します 知恵は知識を汲み上げます
信は 分からなかった事が 分かるようになる
疑いは 簡単な事でも分からないのです

不信はその行動を止めます だから学べないのです
極端ですが
信は 結合 平和 善 勇気 不可能を可能に
不信は 分断 臆病 戦争 悪 可能を不可能に
 参考  → 信とは 

信は行動に移り その結果を見て学び 確信になります

 次に生死は必ず訪れる自分の大問題でもあるのです
関係の無い人等いません 例外なく 必ず訪れるのです
 いかに財産を残そうが どんなに名声を高めようが 
どれ程多くの知識も体験も 死を目前にした時 
何の意味も無くなるのです(一応です) 
 すべてを捨てて この世の舞台から去るのです
(これも一応です)

ビクリルユゴーは
(人間は 生まれながらにして 
すでに死刑の宣告を受けた存在なのである)
と言っています
ハイデッガー(実存主義者)
(人間は死への存在である) 等など

 この最も大事な問題を抜きにして 
この世の幸せなどあるはずがありません
だから 幸せの法則 と言ったのです

 求めず 知らなければ無常な人生で終わります
求めて知れば歓喜(幸福)に至る道が開かれるのです
死の問題と真の幸福の問題はイコール同じなのです
生の問題と真の幸福の問題もイコール同じなのです

-⑤-
 
次に →  求める とは
それは 自分では分からないからです それが普通です 
知識も経験もありません 義務教育では教えていません  
学校の先生に 聞いたら 
「そんな事 考えるのはやめなさい」
なんて言われそうですね

 ここで悪い例を一つ
ピエール・ガッサンデー(フランスの哲学者 数学者)の言葉を紹介します
「私は何故、生まれてきたの知らない どう生きれば良いのか
知らないで生きた そして何故死ぬのか 分からないまま死んでいく」
と 悲しく言いました
彼も求めていたのでしょう しかし それを知る者と出会う事がなかったのです
 有名な哲学者と言えども 分からないのです

 死の問題は 生命誕生のメカニズムと同じように 
今現代に至るまで謎であり 世界中の学者の
大問題なのです 論理的に成り立たないのです 
 量子論等の 研究から想定して 宇宙の原意識に戻るとか 
情報は散らばり 条件が整えば再生する(麻酔学者) とか
まだ想定の範囲です
しかし、量子論が世に登場したおかげで、死の問題が分かり易くなった事は事実です

 宇宙の原意識を キリスト教の神と捕らえるか
仏教の久遠元初の仏と捕らえるか
いずれも 哲学 宗教の領域に入ります

人間は神が作った とか 宇宙船に乗って地球に来た 
なんて 事を言う人がいますが
この方が納得し易い 信じられやすいです、決して否定できません
論理的に成り立たないから宗教だなんて 思っている人もいますね
神を信じた結果、善くなった。・・・神はいるのです
神は沈黙を守った・・・・神はいないのです
ハーバード、コロンビア大学等で祈りの研究で
祈りが、良い方向へ変化をもたらす事が、実験で証明されています
そのメカニズムは当然不明です

 一度死んだ人に死後の世界を聞くわけにはいきません
(入り口まで行って戻って来た人はいますが)
だから 判らないのです だから求めるのです 
求め続けるのです あきらめればそこで終わりです

 では「何処で どのようにして求めるか大問題です・
「簡単ともいえるし難しいとも言いえます」
日本には17万を超える宗教法人があります
基礎的な知識がないと、簡単に騙されます
先ず 透徹した人物にヒントを求める事も大切です

 カールブッセの有名な詩に
(山のあなたの空遠く・・・・からはじまり・・・ ああ涙さしぐみ帰りきぬ)
チルチルミチルの
(幸せの青い鳥は 自分の直ぐ近くにいたのです)等 
ヒントはそこら辺にあります 
先ほど 死の問題と真の幸福の問題はイコール同じと言いました
死が分からずして、真の幸福などありません
幸福が分からずして、死の問題がわかるわけありません

(幸福は直ぐそこにある 答えは貴方の足元に)と言うのです

 透徹した哲学者 詩人 文学者は
シラー ・・・・・(汝の運命の星は汝の胸中にあり)
ソクラテス・・・・(汝自身を知れ)
デカルト・・・(我思うゆえに我あり)
釈迦・・・・・・(汝自身を省みたずねるが良い)
カント・・・・・(・・・我が上なる星と 我が内なる道徳法則とである)
ユゴー・・・・(・・・空よりも大きな眺めがある それは魂の内部である)
ルソー・・・・(私が語らなければならないのは人間についてである)
カーライル・・・(理想は我々自身の中にある)
等々 世界的な文学者 哲学者 詩人は 口をそろえたように
 (一番大事なものは貴方の中にある)と言っています

 答えは すぐそこに いや貴方の中にあると言うのです
キリスト教の否定に聞こえますが
それはともかく 簡単ともいえるし 難しいとも言いえます


 ここで注意があります
 迷路に迷い込んだ聖職者のなんと多い事か
狂ったエセ聖職者に踊らされている人がなんと多い事か
 浅い 幼稚な教えに 思索する事も 学ぶ事も 
疑問をいだく事も止められ だだ信ずるだけは 
楽ですが危険です 要注意です
だから私は → 学ぶ → 学ぶ → 学ぶ と羅列したのです

 哲人 聖人は 幸福の因は近くに 直ぐそこに  
貴方の中(内)にある と言いますが 
エセ宗教家は 幸福の因は別の所(外)にあると言います
自分以外の外に求めます 霊感商法等 その典型です
 例外なく 因果の法則を 生死の法則を無視します 
それが 得体の知れない 全知全能の神であったり 
遠い遠い天国や極楽であったりするのです 
お告げ 守護霊 お札 坪 教祖の写真であったりするのです 
妥当性がないのです 都合の良い金もうけです

 
-⑥-  
私達は 自分の事を全く知らないのです
 先穂で羅列した 透徹した哲学者 詩人 文学者は
自分を知れ 貴方の中に 等など くしくも 方向は同じです
そこから学ばなければなりません

 もし学ぶ事ができたら 取得したら 
迷い無く大胆に演ずる事ができるのです
だから生死は演ずると結論したのです

生命の個別化の原理、
流動的に捉えた現実
個性化の法理 
深層の実態
量子脳理論

難しそう 
学ぶ気がしない 忙しい 暇が無い、知らなくても生きていける
いや
求めれば実に簡単なんです 
すべてが一瞬で分かるのです
インスピレーションなんかも一瞬ですよね
 
仏教の経典に 竜如と言う女性(子供)が出てきます 
一瞬でわかったと伝えられています
参考→竜如 

 先にプラトンの洞窟で生活している人達の話をしました
「青い空と緑の大地」の話を誰も信じないのです
これは 求めようとする人がいないからです 
一歩外へ出れば 簡単なのです
 一瞬で すべてを学び すべてを理解する事ができるのです
だから「簡単に分かる」 と言ったのです

先ほど (不信は簡単な事でもわからない)
     (信はわからない事がわかるようになる)
と言いました 
強い信は強い知恵が沸き 行動に移るのです 早いのです
 先程 「紙芝居しか知らない人に 4Kテレビを理解させるような」とか
「火の見やぐらしか知らない100年前の人に」とか 
たとえ話をしました すなわち 求める物は、真実は
 自分の常識のはるか彼方にあるのです
いや 常識の外にあるのです
一瞬で分かるか 一生分からないかは 
信ずるか 疑うかで 決まるのです

アインシュタインは
常識とは18歳以前に心に沈殿して 積もり積もった偏見以上の何物でもない
それから後に出会う どんな新しい考えも この常識と言う自明な概念と
戦わなければならない  と 言っています

 普通に生きてきた人に 小さな世界に満足している人に 
常識を、先入観を、捨てる事はできません 世間に染まった
色眼鏡を外す事はできません、だから難しいともいえるのです
 しかし 真面目に世の中の矛盾に悩み、不合理に怒っている人ならば 
又、この世の地獄を体験した人ならば  
生命の 自然の、大宇宙の不可思議に驚き
真摯に考え、受けとめているひとならば
(何故だろう 何故だろう 何かある)と 求めている人が多いのです 
求めれば簡単なのです

 
 ここからいよいよ核心部分に入ります
暗い洞窟から一歩踏み出す きっかけになればと思います
 専門用語を使わずに 理解しにくい表現を使わずにと 思っています
そのため 本意を少し逸脱する場合もあるかもしれません
 あしからず

-⑦- 
生命の個別化の原理

先ず命とは我とはいかなるものか
生命の誕生は謎であり 一個の人の生命は 地球的規模です
 その地球の海水は 人間の血液と その成分がきわめて近く
体温があり 自ら動き 自己修復能力をそなえている
 まさに 地球自体も生き物と言ってもおかしくはありません
もし 地球が生き物としたら 生命誕生は少し理解できます
     ここの説明は 何処にでもあるので カットします
 
 生命の我の個別化(グループ化)の原理をお話します
 先に「この世の地獄を体験した人ならば求めている人が多い」
と言いました おおむね謙虚な人が多いからです
大病を患った人は 深い人生の味を知っています
 聞く耳をもっています
 皆さんもお分かりでしょうが 順風満帆で来た人は 人の言う事を
なかなか聞きません

 苦しみを分析してみましょう
    
 時間がなかなか進まない  体が異様に重い       不自由
    ↓              ↓                ↓
極限の苦しみは時間が止る  底なし沼に引き込まれる  拘束されている
    ↓              ↓                ↓
   無時間            最低            叫び声も出ない
    ↓              ↓                ↓
   無間 です          地 です           獄 です

すなわち 無間 地 獄 の一部の体験です  本質は(怒り)です
 
 そこからの脱出は いかに困難か
 体が異様に重く 立ち上がる事が苦痛である 
この状況が永遠に続くと思われるほど時間が進まない 
鎖で縛られているように 自由がない
自分への怒りが 他人への怒りが 世の中への怒りが
炎となって 自分を焼くのです そして 恐ろしく寒い

地獄にも様々な苦しみがあり 八大地獄と言って 分類されています
             後日 機会があったらご説明しますが
それを体験した人は 
そこから脱出した人は 二度とあの苦しみを味わいたくない
と思い 常に考え 又努力をしています、恐怖を抱いている人もいるでしょう
おおむね謙虚な人が多いです
聞く耳をもつ事ができる人は早いのです
即ち地獄とは
地の底にあるのではなく、苦しんでいる人がいる場所が地獄と言う事になります
即ち、あの世ではなく、現実の今住んでいる世界の事であり
更に、自分自身の生命の感じている状態を言うのです

前の方で 多くの詩人 哲学者が述べた 結論を羅列しました
「直ぐそこに 更に自分の中にある」と 
すなわち 真実の幸せも、地獄の苦しみは貴方の中にある我が感じるのです
 天国のような快楽の命も貴方の中にある我が喜ぶのです
貴方の中には この二つの命だけではなく幾つもの別の命もあるのです
生命の個別化の原理には 地獄(苦しみ)の命 天界(喜び)の命の他に
八個の命があるのです ここが入り口です 

始めに 地獄~修羅

貴方の命の中にある地獄(苦しみ)の世界 略して 地獄界といいます

1)地獄界 
→ 苦しみにしばられた(拘束)最低の命、生きることが苦しみ。
(時間が遅い)本質はいかり(怒り)
心身共にこの怒りが占領してしまい、他に余裕がない
           

2)餓鬼界 
→ 目の前にある欲望の命 欲望が満たされずに苦しむ命(物質欲 所有欲 
食欲 性欲 その他)・・・喩えその欲望が満たされたとしても
心の豊かさが失われてしまう命です
しかし、地獄界とは違い、囚われから脱して、何かを求めている状況で
生きるエネルギーにもなります

しかし、この欲望の充足と引き換えに、
核の恐怖。自然破壊、AI(人工知能)の恐怖が増すのです
その本質は貪り(むさぼり)です
私利私欲を貪る、とか言いますね、欲望の奴隷と言う事です
思い通りにならない欲望が煩悩となって苦しむのです

仏教では、この欲望の特色に、その頂上に第六天の魔王が住む、と言い
貪りに陥る、欲望の魔性を言い当てているわけです
特に、支配欲、権力欲に潜むのです。そしてそれは
人間の本質に、元々備わっている、エゴイズムの実態なのです
生命に備わる根源的なな無智、を言うのです
この魔性は人間的な理性や自我など、全く無力なのです

恐るべきこの餓鬼界ですが、 悪いとは限らない 
欲望が無ければ医療や文明の発展もないからです) 
すなわち欲望には善悪の両面があるのです
この欲望を、如何に知恵に変換するかなのです


この欲望や煩悩は苦しみの根源であると、悪いと決め 
それを絶つために 様々な修行をしている僧侶がいますね
それがいかに的外れか、少し学べばわかりが 荒行等をする 修行僧
智慧によって欲望や煩悩は正しくコントロール(制御)するものなのです

欲望の魔性(第六天の魔王)を「元本の無明」と言います
        「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(997㌻)
我々は、人類は。この「元本の無明」との対決から、勝利から
平和が幸福が開けるのです
これを専門用語で「煩悩即菩提」といいます
煩悩は108コある、とよく聞きますよね。除夜の鐘の数ですね
四苦八苦・・・4×9+8×9=108 これは偶然ですね

      参考→ 煩悩即菩とは   
         
修行しながら死んだ僧侶を生き仏だとか 笑っちゃいますね ただの餓死者です
東南アジア諸国の小乗教の僧侶は 日本の生臭坊主とは違い
財産を持たない 酒も女もバクチもやらず 質素な生活に欲望はなく、着る物 履物 皆同じ、
なるほど、尊敬されまするね
日本の生臭坊主も、少しは見習ってほしいですね
しかし 政治経済にはかかわらず口出しはしない、
自分の成仏のみを願う 自己中、と批判する人もいます
確かに、模範的な生き方とは言えません
性欲を絶つため 性器を切り取る僧もいます 笑っちゃいますね 
あ ダライラマ(チベット)は迫害されたから反発したのですね
今のダライラマには求心力がありませんね、中国も安心して泳がしている

                                             
   私の勝手な話
  チベット仏教はとにかく僧侶が多過ぎ 一家に一人僧侶が居る事は名誉だとか
  1949年つまり中国革命の年、人口130万に対し僧侶は40万
  20世紀には男の半分以上が寺にいたことになる。ところによっては3分の2
  皆 働かない 男の出家が多すぎたために女の半分は余っちゃた。
  男女差別 バランスが悪い ダライラマさん ノーベル平和賞???
  持ち上げ過ぎ ペキンダック食って 女性差別発言、謝罪してたな
  オウムの麻原に利用され、いや、どっちが利用したか微妙ですが
  参考→http://xizang.is-mine.net/aumshinrikyo.html
  今も 真言宗が利用してるが、大丈夫かな
  ダライラマの説法を真顔で聞いてる、日本の坊主が滑稽に見えるの、私だけ?
          
 
  私の勝手な脇道
  男女差別反対でーす 仏教の経典には
  「女人は地獄の使いなり よく仏の種子を絶つ 
  外面は菩薩に似て 内心は夜叉の如し」とあり 確かに男女差別でしたが 
  釈迦は 法華経で男女差別を撤廃しました  それなのに何故でしょう
  すなわち 法華経以前の経典を用いているからです 
  女性の成仏の第一番目が法華経に説かれている竜如です
   参考→竜如 
  日蓮も
  「この世の中の男女僧尼は嫌うべからず」
  すなわち、
  男であれ女であれ、僧であれ在家であれ、差別はない、と断言しています

  チベット仏教も 東南アジア諸国の仏教も女性の僧侶はいません 
  生まれ変わって 男に生ま変わらなければ成仏しないのです 
                         
  幸い 大乗教の日本には男女差別ありません尼さんもいます よかった 
  でも 今でも女人禁制の山ありますよ 昔は 富士山だって 立山だって 
  女は登れませんでした
  又 念仏で往生するといわれる 阿弥陀のいる極楽には女性がいないんですよ
  女性は極楽に行くと 皆男になっちゃうんです 
  私にとっては地獄です そんな所、絶対行きません、いや、行けません
  
      極楽・面白過ぎるから 参考→ 極楽とはどんなとこ  
         
  阿弥陀仏も極楽も釈迦の空想の産物だからです それと同じように
  地獄が地の底にある と言うのも 極楽が西の彼方にあると言うのもウソです 
                        
  当時のインドでは悪人も多く 無学 無知の人達が多くいました
  そういう人達に 先ず 悪事を止めさせる事が大事です やむ負えなず 
  悪事を働くと (地獄へいくぞ)と得いたのです
  釈迦を信じ、仏道を起こさせる事が大事だったのです
  又、西の彼方の真っ赤な夕焼けに染まる方向を指して、
  あそこに理想の地(極楽)があるのだ、と説かれると、信じます
  仏を信じない、レベルノ低い人達のための
  緊急避難的な方便(真実に導くための ウソだったのです
                        
  危ない道路で遊んでいる幼児に 皆 (ガリガリ君上げるぞ)と
  嘘を言って 幼児達を非難させるようなものです
  南無阿弥陀仏…?ж・いくら唱えても 極楽に行けるわけありません
  極楽なんて無いんだから   
  日蓮が 
   「中略・・・委細に尋ねれば 地獄と言うも 極楽と言うも我が5尺の身の内に見えて候」   
  そうそう 自分以外に求めるのを「外道」  
  自分の中に求めるめるのを「内道」と言うのでしたっけね
  西洋哲学の、直ぐそくに、貴方の中に、と言うのと相通じるところがあります
            
   余談をもう一つ 
   西郷隆盛の言った事だが
   「命もいらず 名もいらず 官位も金もいらぬ人は 仕末に困るものなり」 とか
   こんな欲のない人いるのかな こんな奴と付き合うの大変そう 確かに仕末に困る
   欲は適当に持ってください いや 大いに持ってこそ進歩があるのです
   しかし コントロールできなければガメツイ餓鬼道に陥るので要注意
   ガンジーのいさめに 道徳無き商業 も 餓鬼道に陥るので要注意
   余談はきりが無いので おわり


3)畜生界
 → 目前の利害に本能で動く動物のような命です。
自己を確認出来ない、自分を振り返る理性が働かない
(弱肉強食 )本質は愚か(おろか)対照的に(賢い)は人
ここは 詳しく書かなくても 誰でも分かりますね
ですから、不倫も畜生界なんですね
本能が支配し、人を裏切り、心に消す事の出来ない傷を付ける
傷害罪にならない障害罪ですが、反省がなく、繰り返す
  参考→不倫  
畜生は恥を知らないんですね 恥を知らない人間は畜生です 
畜生は明日の事考えないんですね 同じように目先で動く人は畜生界
ちょっ待って そんな人間より
冬のために せっせと食料をため込むシマリスの方がましでないですか
           
喧嘩の好きな、暴力をふるう人間は畜生界ですね 
弱肉強食の生存競争の世界です となると 
戦争は餓鬼界と畜生界と次に説明する修羅界の人々の成れの果て 
地獄を作ります 本質は愚か(おろか)です・・納得です
ちょっ待って うちで飼っている 猫の方がましだ(賢い)喧嘩しないからね



4)修羅界 → 驕(おごり)り高ぶる命 常に他人に勝ろうとする命。
 小さな自分を隠して偉そうにしている人 エゴイズムの正当化
争いの現場を「修羅場のような」とか言いますね ここからきています
少し 自我意識が芽生えた状態ですが 本質はへつらい
「諂曲なるは修羅」とあります、心が曲がっているんです
内面と外面が違う。「うそつき」なんです、
人を見下し、肩をいからせて、いばっていて、
皆に、自分は凄い人だ、人格者だと思わせたいんです
そのため、自分より優れた人の存在を許さず。嫉妬するのです
だから人から学ばないし、自分を反省することもないのです
そして、心にもないこと’(うそ)を平気で言うんです

薬で、この間捕まった有名なミュージシャン
二度目だそうですが
一度目に反省し、絶対やらない、と誓っていましたね、
ファンを見下している、おごり高ぶった修羅界の人でした

偉そうに尊大ぶっている人が 真実がばれると 急に小さくなり 
 臆病になった例 ありますね、その代表が阿修羅王の事です          
修羅とは阿修羅王の事で 帝釈天との戦いに破れ 尊大ぶっていた修羅は
帝釈天に真実を見抜かれ 小さくなったて蓮の葉の裏に隠れたのです
          
注・・・葛飾柴又の帝釈天にお参りする人 真実を見抜く帝釈天ですよ 
貴方の真実を見透かれないように 注意しませう  #・☆、△m?vg・・・
 (更に詳しくは後で)



 ここまで、 地獄・餓鬼・畜生・修羅を
四悪趣をと言います六道の中の四つです
「安心して下さい」 どんな聖人君子と言えども この四つの命はあるのです
隠れているのです 潜んでいるのです 縁により出てくるのです、要注意
           参考→ 縁とは   



次に~天まで
5)人界 → 穏やかで平静な人間らしい かなり自由な命です。本質は平(たいら)
人界は、穏やかで平静な生命状態にあり、人間らしさを保っている状態をいいます。
この人界の特質は、因果の道理を知り、物事の善悪を判断する
理性の力が明確に働いていることです。
善悪を判別する力を持ち、自己のコントロールが可能になった境涯です。
幸いにも、私達はこの人界に生を受けました
しかし、安心はできません
この人間らしい境涯も、決して努力なしに持続できるものではありません
いつでも悪縁に触れて、人間らしさを失うのです
地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣へ落ちる危険があります

   余談ですが・・・田中正道全集に
   「国は尚人の如し。人肥たるを以って必ずしも尊とからず。
   知徳あるを尊しとす。国は尚人の如し。腕力ありとて尊からず、
   痩せても知識あるを尊しとす」 とあります
   彼の指摘した通り
   日本は間もなく、平らな人界としての軌道を失い、富国強兵の修羅界の道に
   入り込み、地獄界を見ました

世間には悪縁が多く、人間らさを保つ事は難しい事なのです
持続する秘訣は、絶え間ない精神の向上と「自分に勝つ事」と言いましょうか
このように
人界は悪縁にふれて悪道に堕ちる危険性もある半面
更なる上を目指して進む可能性も持っているのです

           

6)天界 → 物心さまざまな欲望が満たされて喜びに浸る命。
古代インドでは、今世で善い行いをした者が来世に天に生まれる
と言われていましたが、・・・な所ある訳ありません
「喜ぶは天」と言われ。
物質的、社会的、精神的、芸術的欲望が満たされた時
満足に浸っている瞬間の生命を言うのです、

宝くじに当たったとか 万馬券当てた~、有頂天になる 
自由な命に見える 本質は喜び 本当の喜びとは違います
要注意があります
 天は簡単に崩れ去るおそれがあります、不安定なのです
「魔は天界に住む」・・・と世間でも言いますね
一期に地獄へ落ちる危険性をを常にはらんでいるからです
 人界と天界は(自由)と言ったが それは 深く考えると 
外から与えられた部分が多いのです
だから かなり自由 とか 自由に見える とか言ったのです
 これは本当の自由とは違います 

うきうきしたバラ色の世界、と言うイメージですが
永続的ではなく、時と共に薄れ、夢のように消えてしまうものなので
影の楽しみであり、バラ色が季節と共に灰色に変色してしまうように
永遠ではありません、空しさが漂います

何故か、自己満足が悪いのです
はかないバラの花を追いかける、人生そのものが幻(まぼりし)なのです
ですから、本当の幸福ではなく、俗にいう、相対的幸福、と言えます


 この六個の命が出たり入ったりで一生終わる人を 
俳諧老人とか 夢遊病者とかで たとえました
 大変な介護をしている方々に 「たとえで使うな」って怒られるかもしれません 
すいません
 これらの人達はこの六つをぐるぐる回っているから専門用語で(六道輪廻)と言います 

 生命の破壊は地獄界
 少しばかりの欲求を満たそうと徘徊する(我)は餓鬼界
本能的に執着する心は畜生界
 勝敗のみにこだわる利己心は修羅界と言えます

 やっと最高の天界に上り詰めたと思っても 要注意です
 直ぐ崩れ去るのです 地獄まで一直線 と言う事は 珍しくありません 
それは天界の霧の中に 何かがいるんですね
・・・ エイリアンのような・・・笑い・・・魔物です・・・見た事ありませんが
「魔は天界に住む」といいます
 魔とは命の輝きを奪う働きを言います
生命の根本的な迷いから起こるものなのです

・・・このエイリアン「魔」探しは後日

結局、この天界までの六道は
自身の外の条件に左右されています
環境に左右されているという意味で、六道の境涯は、
本当に自由で主体的な境涯とはいえないのです
そこで、環境に支配されない主体的な自信を築くため
その上を目指さなければ、本当に崩れない幸福はありません
すなわち、天界から落ちないようにするには六道輪廻から
脱出しなければなりません


六道の上の四つを四聖と言います がむずかしいのです 
 青い空と緑の大地の話はここからなのです

7)声聞界 
→ 絶対の論理を聞いて (ああ なるほど)と一部分を覚った命です
知識もあり 理性もあり 直感も働く 力もある
先に「聞く耳をもつ事ができる人は早い」と言いましたが 
 この事なのです
例えば
いい日は幾らでもある。手に入れるのが難しいのはいい人生だ
アニー・ディラード
これを聞いて、目がさめるような思いがし、行動に移す人の事です
又、
誰がために鐘は鳴るやと問うなかれ。汝自身のために鳴るなり
とかをきいて、歓喜する人の事です

釈迦の弟子の利弗と言う大学者は
「最高の法」「最高の生き方」を聞いた時
よほどうれしかったのか
歓喜のあまり思わず踊りあがって、釈尊に向かって合掌した
と、譬喩品にあります
根底から一念が、生き方が、変わったのです、
彼は
「今、仏から未曾有の法を聞いて、すべての疑いや悔いがなくなり、
心身ともに安穏になりました。今日はじめて知りました」
と述べています
そして
“教えの声を聞く声聞”から、”教えの声を聞かせる真の声聞”へと
生まれ変わったのです
これは、人々を救済する菩薩の道でもあります

災害とかを聞き付け、ボランティアに駆けつける人達もそうです



8)縁覚界 
→ 自然界など、様々な物事を縁にして みずから発見し 
 みずから創造し 自ら部分的な覚りを得た命です
(一瞬のひらめき インスピレーション等も) 
みずから と言う点で 声聞界より一段と深い(歓喜に近い)
(更に詳しくは後で  先を急ぎます)
 
 ずいぶん俳諧老人をたとえとして説明してきましたが 
「何処から来て 何処へ行くのか 何のために」が判らないとか・・・
 でも簡単です 自分の家から来て 自分の家に帰るのです
 しかし「何のために」家を出たのかが判らないのです 必ず目的があるはずです
 声聞界 縁覚界は それが分かり始めるのです

 さて ここからが「何のために」の説明です
 たとえれば 舞台に上がった役者は 例外なく それぞれの役割があります
 自分の役を演技を大胆に 見事に演じるのです
 我々の一生もこれと同じです この世と言う舞台に上がったのです 
「何のために」・・・やらねばならない役割があるはずです
前の方で 生死は演ずると言ったのは この事です
この世と言う舞台に上がった以上 舞台を降りるまで 自分らしく演じ続けるのです

 見事に演じる事ができたら 拍手喝采を浴びます
舞台から惜しまれつつ去るのです 名優と称えられます

一休みした後 当然 次の舞台が待っているのです 
 もしかしたら 自分の希望の舞台へ 希望の役柄で 
出演する事ができるかもしれません 名優ですから
 更に みずからシナリオを書き みずから主演を演じる事も
できるかもしれません 名優ですから

 それとは逆に 舞台の上で 自分の役割がわからず 演技もできず 
右往左往しているだけの俳優「大根役者)は 罵倒されます
回りに大迷惑をかけて 事故を起すかもしれません 
 途中で舞台から降ろされるかもしれません 
 もしかしたら怒られて 次の舞台は 当分無いかもしれません 失業です
やっと舞台に上がったとしても 大根役者はつまらない脇役です
 このたとえが適切かどうかは わかりませんが 分かり易くと思いまして・・
この世は舞台です。役目の無い人等、生まれて来るはずがありません

7)声聞界の所で(一部分を覚った命)と言いましたが 
まさに自分の役割を 舞台の袖にいる黒子に教えてもらい(これを縁といいます)
(ああ そうだったのか)と 一部を思い出した俳優です(少しましな大根役者)
 でも まだ大胆に演技するまでにはいたらない状況です 

 そして縁覚界までくると 舞台の袖にいる黒子に案内され(縁といいます) 
舞台装置を見て みずからの役を思い出し 
みずから描いたシナリオ通りに大胆に 堂々と演ずるのです 
 歓喜に近いのです 修羅界では 自我意識が少し芽生えるでしたが 
縁覚界では がぜん自我意識が大きく芽生えるのです 

 「我思うゆえに我あり」です (デカルト、ニーチェ、キルコーゲ ソクラテス)
その他多くの鉄人が 生涯をかけて 我(人間)の一部を悟るのと同じです
(人は何処から来て 何処へ行くのか 何のために)
 この声聞界 縁覚界の2つを専門用語で「二乗」と言うのです

 ここまで来れば六道輪廻)からの脱出です もはや俳諧老人ではありません
 ずーと上の方の図面の解説で (生死は演ずる) と言いましたが 
みずからの意思で 演ずる。実践。行動 が いよいよ始まるのです
 本当の歓喜(大歓喜)は直ぐそこにあると思われます



 しかし ここで大問題起こるのです
洞窟から一歩踏み出すのはいかに難しいか 思い知らされるのです
 縁覚界での悟りは 一部のみで すべてではありません
 勘違いして 悟りの本質まで到達したと思い込み 
増上慢や 利己的な性格が頭を持ち上げてくるのです
 そして 自分の奥深くに潜んでいた たちの悪い欲望が
引きずり出されてしまうのです
これを抑えるのは不可能に近いのです

 理性を働かせ どんなに清らかかな良心をもってしても 
命の深い深い部分(理性 愛情 良心より更に深い層)に潜んでいて   
なすすべもなく現れるのです 
 専門用語では (元品の無明)と言います
                元品の無明については 九識論で少々触れますが
                分かり易くとなると難しい  後日 

 すなわち 聞く耳を持たなくなるのです 
 二乗は確かに知識もあります 自分は何でも知っている と言う自負もあります
自我意識も強く 力もあるので決して自分の意見を変えないのです
その頑固さは 手に負えません
 洞窟から一歩踏み出すのはいかに難しいか 思い知らされるのです
この一歩は すべての常識の はるか先にあるのです


 先日 これらの理論を ある程度学んだらしい方が 勝手に訪ねてきたので
とりあえず お話をお聞きしました 
 (五重の相対 腫塾脱 三証 等々 初歩的な事をベラベラと)
60~70%正しく20%~ どうでも良い事で 僅か2~3%が間違っている
と感じました
 実は この僅かな狂いが 決定的な狂いなのです

 20年も前ですが 昔 若い頃 共に学び 活動していた友が尋ねてきました
当時の僅かな狂いが 今とてつもなく大きな狂いになっていました
 この僅かな狂いは何処からくるのでしょうか
元品の無明を断ち切る事ができなかったのです

 一つは 狭い範囲内での 偏見を信じてしまった
 文学 哲学 科学 芸術 歴史 政治経済 等に疎(うと)いのに
すべてを知る聖者のように振舞う 
 
 いや 分からなくてもいいのですが 何でも知っている様な思い込みは
妄信に陥り 相対して論じる事ができなくなっていました
 そして一方通行で 裏をとっていない 噂の類を鵜呑みにしている 
 口ばかり 言葉ばかりで 何故がない 引用が間違っている
 そして 決定的な一つが 違う意見を聞かない と言う事です
聞く耳を持たない と言う事です これは レベルの低い縁覚界です

 今の社会 一芸に秀でた人を称えますが それで本人が思い上がり
錯覚してしまえば レベルの低い縁覚界 以下です
 そう言う 偉そうな人 いっぱいいますね 
総体的に優れている人は本当に少ないです

ゲーテの生き方を模範にしたいですね
彼は
シェークスピアやルソーなど、外国の文学も含め、
あらゆる名作を深く読み込んでいったことは有名です
勉強しない人間、読まない人間、学ばない人間は、
どうしても頭が硬直化してしまう。
それでは子どもからも好かれないし、人からも好かれない
本物が分からなくなるのです

 思い込みを捨て ひたすら正しく学び しがみつく思いで求め 
偽り無く我を磨き そして信を強くする
我を磨かなければ 曇ってしまいます 道を間違えるのです 
元品の無明に簡単に負けるのです
 そして それらを見事クリアすれば その上の菩薩界に容易に登れるのです

9)・・・・菩薩界とは
 洞窟の外を見た人が 親しい友人に 
「さあ 俺を信じて 外の世界を見てみよう」
と誘っても 親しい友人であっても
「・・青い空・・? 緑の大地・・?何それ? 信じられない」と言い動かないのです
外の世界を見た人は親しい友人に
「俺がお前に 嘘をついた事が一度でもあったか 俺の言う事を信じろ」
と 繰り返し言うのです それでも親しい友人は動きません
どんなに理を尽くし、道理を説いても
 親しい友人は 先入観と言う色眼鏡をかけいるのです
更に 騙されたと言う 悪い噂を聞いてしまったのです
作られたイメージを変える事は至難の業です
自分の人生を否定されたと思い 反発するのです
ソクラテスが処刑されたのも、謝ったイメージのせいです


 友人は やっと重い腰を上げたのです「・・お前を信じてみよう・・・」
そうです 青い空と緑の大地 を信じたのではありません
友人を信じたのです
 洞窟の外へ一歩出た友人は 真実を見て 歓喜したのです
一瞬ですべてを理解したのです

この場合 友人が(縁)と言う事になるのです
縁について この先で触れます

参考・・・縁とは

 外の世界へ一歩踏み出た友人は決意します
「・・・この外の世界を知らない人達に 今度は私が教えなければ・・」
 そしてその友人は歓喜したまま 再び暗い洞窟に戻るのです
 今度は 外の世界を知らない洞窟の多くの人達に 
みずから学び歓喜した 外の世界を語るのです
カントは
  「人間にとって目的であるとともに 義務であるものは
  自己自身の完全性と他人の幸福である」 と言いました

 信ずる 行動 学ぶ ができたのです すなわち大歓喜です
これを「悟り」と言うのです
 上の方の表で 信ずる 演ずる 学ぶ ができれば歓喜になると示しました
この事です (信・行・学)です
信じてから 行動です そして学んだのです
 先に学ぶのではありません 順番を間違えないようにしましょう
学べば更に信じる心は強固になり 知恵が沸き更に果敢な行動へと繋がるのです

 4Kテレビを見るのに 電磁回路 電子回路を勉強して納得してから 
スイッチを入れる人はいないと思いますが それをやれば何年もかかります
取り扱い説明書を 信じて スイッチを入れると言う行動に移るのが普通なのです
信そして行そして学です
9)の菩薩界とは この人の事を指しているのです 
 当然 非難されます バカにされます 誰も話を聞きません 
しかし真実を語らないわけにはいかないのです
ここで見事に 俳諧老人ではなくなるのです
(何のため)を悟った瞬間です

 菩薩の顔は優しいのです 真実の世界を見た者にしか分からない
歓喜の命があるからです 
 人々を救済しようとする 慈悲の命が勇気の行動となるのです
暗い洞窟にいる この人達を救うのは自分だと決め 使命感が湧くのです
 あえて 暗い洞窟で 皆と一緒に生活をするのです
 この人は 周囲の評価 状況に一喜一憂する事はありません
地位や立場 経済力 容姿等で一喜一憂する事もありません
人を恨む事も憎む事もありません 関心を得ようと策に走る事もありません

少々 別の観点から言うと
 自分の特技を活かし 知恵を働かせ人々を救う人を(文殊菩薩)
慈悲の力で救う(弥勒菩薩)音楽の力で(妙音菩薩) 医療で(薬王菩薩)
 学理で(普賢菩薩) 政治経済で(観音菩薩)
菩薩の命は歓喜なのです
 前の表で すべて歓喜に至る事を記しましたが 
この事なのです
ちなみに 菩薩の数は 数えきれません 

 座禅を組んで じっとしている菩薩などいません
滝に打たれて 修行している菩薩などいません
のんきに 札所参りなどしている菩薩などいません
冠婚葬祭に明け暮れる 菩薩などいません
時を最大に生かしてこそ 命は輝くのです

生命の平等を知る「知恵の人」
差異を尊重できる「勇気の人」
人々と同苦できる「慈悲の人」
が菩薩です
教育は「自他共に益する」のが菩薩です

 菩薩は 多くの人の中に みずから出向き 言葉巧みに語るのです
語らなければ 何も始まらないのです
人を救うのも言です 邪悪を砕くのも言です 時代を動かすのも言です
 人々の苦しみを 我が苦しみとして 語るのです慈悲の表れです 
 慈とは いつくしむ 悲とは 共に悲しむと言う事です
慈悲とは励ましの事です
 自分の仕事をしながら 家族を養いながら 
そしてみずからの病と闘う事もあるのです



最期の10個目に気前に、分かりやすいのを見つけました、コピペします

 「浦島太郎」を十界論で読むと
須田: “ウラシマ効果”の話が出ましたが、「浦島太郎」の物語は、
十界論を学ぶ、よい入りになるのではないでしょうか。

名誉会長: なるほど。日本人ならだれでも知っている昔話だからね
。これを十界論で見ていくと、どうなるだろうか。

遠藤: そうですね。 —- 物語は、漁師の浦島太郎が、浜辺で
カメをいじめている少年たちに出会うところから始まります。
カメをいじめている少年たちの境涯は、十界で言えば「畜生界」でしょうか。
「畜生の心は弱きをおどし強きをおどし強きをおそる」(御書 p957)ですから。

須田: なるほど。いじめられているカメは「地獄界」ですね。浦島太郎は
、少年たちにお金をやって、カメを助けます。この太郎の振る舞いなどは
「菩薩界」の一分でしょうか。お金をもらって言うことを聞く子どもたちは
「餓鬼界」かも知れません。

遠藤: カメはその恩義を忘れず、数日後に浦島さんのもとへ訪ねてぎます。
そしてお礼に、太郎を背中に乗せて竜宮城へ案内するわけです。

斉藤: 恩を忘れず、恩に報ずる —- これは「人界」ではないでしょうか。
報恩は人間らしさの証です。

名誉会長: カメなのに「人界」なんだね(笑い)。

斉藤: はい。人間でも恩知らずは畜生以下になってしまいます。開目抄には
「畜生すら猶恩をほうず」(御書 p204)として、報恩の大切さを教えられています。

須田: 竜宮城では、太郎は乙姫に歓待され、飲んだり踊ったりして楽しく暮らします。
これは断然、「天界」ですね(笑い)。
ちなみに、この「竜宮城」というのは、法華経の提婆達多品(第十二章)に出てくる海底の
「娑竭羅龍宮」など、仏典の影響があるのではないかと言われています


     余談・・・この浦島太郎って、漢訳、竜樹の話が日本風になったのですね、
     大智度論が有名です、まあ 中論とか空とか論じられますが、
     参考・・・竜樹     

    亀でなくとも、助けてあげて恩返しの話は他にも色々ありますが、
    あの玉手箱の正体はなんでしょうか
    何を言わんとしていたのか、ここに竜樹の一生を見ると分かってきます
    何しろ彼は、竜宮に50年間も滞在しため、のです、
    恐らく、その毎日は充実して、喜びだったのでしょう

    まさか、亀を助けたわけではありません
    ある娘を旅先で、盗賊に合っている所を助けたのです
    その娘が、竜種族の長の娘だったんです
    たぶん、その村では大歓迎されたでしょう
    竜宮と言うのは、竜種族の事で、海辺の漁業を営む
    漁師の村であったのだろうと思われま
    しかし彼が50年間も止まった訳は、別にあります

    若い頃、すべてを学び尽くした彼は、遊びに度が過ぎて
    王宮に忍び込み、見つかり、友人と逃げる途中で友人が殺されたのです
    彼は、新しい知識を求めて、旅立ちます
    ある時、山中で、初老の僧侶に、今まで聞いた事のない、大乗経典を教わります
    彼は歓喜しますが、それは大乗経典の一部に過ぎなかったのです
    この時、彼の旅の目的は、大乗経典を求める旅になったのです
    竜宮城には、彼の探していた大乗経典のすべてがあったのです、

    そして90歳と言う高齢になり、故郷に帰って来たのです
    元いた家も村もなく、きっとそうだったでしょう
    しかし、彼の最後の仕事が始まるのです
    外道を信ずるその国王に仏教に帰依させるため、何回も面会を申し込みますが
    叶えられません
    そこで彼は、赤い旗をもって毎日毎日城の周りを歩いたのです
    数年後、国王の目に留まり、合う事ができなのです
   そして苦労の末、国王を仏教に帰依させる事ができたのです
   つまり、爺さんになってからの続きがあったのですね、
      竜宮に長くいたから竜、 樹の下で生まれたから樹と言うそうです
    ナーガールジュナの漢訳です
   

 飢えた人に食を恵んであげるのは 小さな善です
飢えた人に仕事を教え みずから食を得る方法を教えるのは  中の善です
正しい思想を教え 人生の転換を促し 蘇生させるのは 大きな善です 
 その影響は他にも及ぼすからです 菩薩はこれをやっているのです
そして 世の不正に怒り 誰よりも行動しています

 当然大功徳を受けるのです 
 功徳の功とは悪を滅する事で 徳とは善を生ずる事を言います
悪と戦う事の重要性を説き 悪と戦わなければ 功徳はないのです

 ありがたい仏像を いくら拝んでも 功徳はありません
どんな荒行をやって修行しても 功徳はありません
結果だけは出ないのです この世は科学ですから
 この地を天国にするも地獄にするも そこに住む人で決まるのです
極楽(理想の国)も地獄も遠い所のあるのではありません
我が家もそこに住む人により 修羅場ともなり 安息の場にもなるのです
道理です
 この世に数ある思想 哲学 宗教を 正しく見極める基準の一つに
人間を強くするのか 弱くするのか
人間を善くするのか 悪くするのか
人間を賢くするのか 愚かにするのか
があります
人間を 弱く 悪く 愚かにする思想 哲学 宗教のなんと多い事か

アインシュタインは科学なき宗教を批判しました
しかし 宗教なき科学も批判しました
彼は科学にも限界がある事を知ったのです
この世には科学では説明できない事があります
 残念ながら 日本人は科学と宗教を分けています
同じなのです 科学と宗教は一体なのです

少々長い引用ですが
加來道雄(理論物理学者日系3世)科学者は偏見をもつべきでなない
信じられない現象も受け入れなくてななりません
唯物論で人間を理解し、唯脳論で解決策を探すだけの科学では、
たとえ国家を挙げた研究でも限界にぶつかってしまうだろう。科学の未来は、
宗教と融合を目指す中に開かれるはずだ
と言っています  

 日本人の殆どは無宗教となっているように見えます
それは 指導すべき聖職者や 僧侶が特権階級のようにふるまい 
宗教を独占し ビジネスにし 堕落したのが原因だと思います

 しかし日本人の多くは
社会の秩序を信じ 道理を信じ 善意を信じ 行動しています
人種差別をしない マナーを守る 親切
これは日本人の誇れる宗教に見えるのです
これは仏教の思想です
日本人は長い間 養われてきた仏教の考えが 
現代になっても まだ死んでいなかった と言う事です

聞いた話ですが 「アメりカ等のキリスト教社会の若者に
宗教別れが進んでいる」 との事です
既存の宗教への矛盾 弊害 等に気が付きはじめたのかもしれません
先ほど(科学と宗教は一体)と言ったが 論理的な説明が不完全でも
最後は結果を見るしかないのではないでしょうか


 しかし 人間は宗教なしでは生きられないのです
 トルストイは人間は宗教なしでは生きられない理由を
第一に 宗教のみが善悪の決定を与えるからだ
第二に 宗教なしでは人間は自分のしていることが善いか悪いかを
     知ることが決してできないからである
第三に ただ宗教のみが利己主義をほろぼすからである
第四に 宗教のみが死の恐怖を打ち消すからである
第五に 宗教のみが人間に生の意義を与えるからである
第六に 宗教のみが人間の平等を樹立するからである
と言っています
キリスト教には当てはまらないかもしれませんが


 話がそれてしまいました 本題にもどります
 究極の菩薩 現代の菩薩を (四菩薩)と言います 
名前を①上行(じょうぎょう)菩薩・②無辺行菩薩・③浄行菩薩・
④安立行(あんりゅうぎょう)菩薩といいます。

 すべて(行)が付きます 実社会の中で行動するのです 
衆生を幸福へ平和へと導く(リーダー)の事です 
相関性を認識する 知恵
差異を尊重する  勇気
(異なる物同士が組み合わさるのを「和」と言い 新しい物を生み出します)
人々と同苦し連帯できる 慈悲を持っています
地涌の菩薩と言います
 この地涌の菩薩は 地涌とあるとおり大地から涌いて出たのです 
 大地とは 究極 深理 基本 極地 大歓喜 等の事です
菩薩の人数は 数えきれません

 そして この社会で活躍する事を 願っていたのです 待ち望んでいたのです
しかも 最も汚れた時代に 苦悩する人々のど真ん中に 
不動の覚悟と誓いを堅持し 出現する事を願っていたのです
願って 願って やっと願いがかなったのですi
 そして ついに その時がやって来ました
 
地涌の菩薩は喜び勇んで 小躍りしながら 出現したのです
大地から涌いて出たのです だから「地涌」と言うのです
 でも 最初っから自分が地涌の菩薩であるとに
気が付かないのが普通です
しかし(縁)に触れ一瞬で 思い出すのです
(我 地涌の菩薩なり)と 使命も 誓いも 覚悟も

参考・・・地涌の菩薩について、詳しく

 ・・・憧れの理想卿 最終目的地・・・・
それを思い出すのです 自分そこに居たのではないか
自分はそこからここへ来たのではないか
 目的地だと信じていたが 実は出発地だったのではないか
透徹した文学者ヘルマンヘッセは言う
「君が求めている光は 君自身の中に宿っている」 と

 はっきりと思い出した 自分の住所は「輝く太陽の 青い空と緑の大地」だ
そこから来たのだ 暗い 冷たい 偏見と苦悩渦巻く洞窟に
 それも自ら願い 誓い 勇んでやってきたのではないか
一瞬の出来事 Uターン現象 命の革命 「自然に仏界に至る」の核心
が完成するのです
ゲーテは
幸福とは 「人生における自分の使命を 喜んで果たし行く中にある」
と言いました
まさに 大歓喜の人生の始まりです

 そして やがて 過去 現在 未来 (三世)を悟るのです
 生死の二法(妙) 因果の理法(法)を悟るのです
生命の究極の一法を 宇宙の根本の法則を 我即宇宙 を体得するのです
永遠の生命を 清浄そのものの、何ものにも汚されない法則を悟るのです
生老病死がそのまま喜びになるのです 歓喜の中の大歓喜に至るのです
成住壊空(じょうじゅうえくう)の空を悟るのです
 九識心王真如の都(九識論で説明)に至るのです
 最後の十番目の仏と言うのはこの人の事なのです

仏の異名に 道を知り 道を開き 道を説く とあります
 死んだ人を仏とは言いません 大きな間違いです 勘違いです
これは江戸時代 キリシタン禁止のために、寺請制度がはじまり
何処かの寺や神社に所属しなければならない
現在の戸関のような制度でした
寺としても、檀家は減らず、生れてから死ぬまで関わり続けるので
幕府も寺の、打ってつけの制度です
つまり、生まれたら坊主に見せなくてはなりません
死ねば坊主にきてもらい、死亡を確認してもらわなくてはなりません
どんな悪人でも、遺族の前で「こいつは地獄にでも行ったんやろ」
なんて言えません
どんな悪人でも、「私の有難いお経で、成仏いたしました」とか言うのです
残された遺族を喜ばせ 金を取るための お世辞です

死んだ人が仏になどなりません 
仏は菩薩の戦い続ける命の事です
 仏像を見れば分かりますが 仏は皆 蓮の花の上にいるのです 
原因と結果が同時に現れる事を象徴しているのです
 蓮の花は 咲くと言う原因と同時に 結果と言う種ができるからです
すなわち 奇跡とか 偶然とか 例外とかは絶対ないのです

 わかりやすく言うと 女を泣かせば 今度は女に泣かされる
人のものを盗むと 貧乏になる 人を騙(だま)せば 人に騙される
人を殺せば 今度は殺される
 物騒な例え話で申し訳ありませんが 
100人殺せば 100回殺される
と言う事です 因果応報 です

宿命(運命)は 原因による結果 であるならば 変えようがありません
原因と結果は科学ですから 
 しかし それでは 何もかも決まっているから 希望も努力も意味がないのでは??
と考えてしまいがちですが そこが問題です

この世は因果応報でも そこに縁があれば 結果は変えられるのです
落とした卵は必ず割れますが 下にクッションを置くと割れません
そう 其のクッションこそ縁なのです
暗い洞窟から 外の世界にさそってくれた友人こそ 縁なのです
舞台で 自分の役が分からない袖にいる黒子が アドバイスを出す それが縁なのです

古来より その人の運命の捉え方に二つの考えがありました

一つが 宿命論
どんなに努力しても運命は変わらない
自分の境遇をうけいれるしかない
あきらめを植えつける   と言う考えで
結局 希望を奪う考えなのです

もう一つが 偶然論
どんな行いをしようとも 結果には関係ない
人生を無軌道にし 人々を傷つけても 意に介さない
これも 問題の考え方です

しかし 三つ目の考えがあります
因が同じでも そこにどのような縁が結びつくかにより
一人一人に現れる果は異なってくる
と言う考えです これは仏教の考えです

その仏の台座には必ず蓮の花があります
 この 蓮の花は どんなに汚れた社会でも 
その汚れに決して染まる事がないと言う象徴なのです
 更に 社会の泥沼が深ければ深いほど 
蓮の花は大きく咲くのです
 仏の慈悲は キリスト教の(愛)とか 孔子の(仁)とは違います
慈悲の非は「ともに悲しむ」と言う意味があります
 仏は多くの人々が生活している場で 苦楽を共に一緒にいるのです

 その居住する所は大地です 天上界でもなければ 
西の彼方の極楽でもありません 
仏は 意(こころ)惜しまず 身を惜しまず 口を惜しまず とあります
仏は この悪因悪果を断ち切る 利剣を 妙薬を 羅針盤を教えます
 自分自身が花を咲かせるのではなく 種をまいて 一生終わるのです

 山奥で修行している仏はいません 
赤や紫の袈裟を着た ど派手な仏はいません 
自分の幸せのみ 願っている仏はいません
座禅を組んで 黙っている仏はいません
豪邸に住んで 贅沢な生活をしている仏はいません
政治経済に無関心な仏はいません

 使命感 責任感は行動に表れるのです 
誰よりも語り 誰よりも平和のための活動をするのです
精神の土壌を耕し 豊かな幸の花園にします
喪失した精神性は 人間を野獣にします 

 無理解のために 仏は必ず大難を受けるのです 
嫉妬のゆえに 誰よりも多くの批判を受けるのです
それが悪世において 正しいと言う証明なのです
 多くの人々に 人間としての模範的な生き方を教えるのです
 私達の故郷は地球 国籍は世界 人種は人間であると 
地球民族主義を掲げ
世界的規模で 万年の先を見据えて
 ガンジーは 偉大な運動が経る五段階
「無関心 嘲笑 非難 抑圧 を突き抜けて 尊敬の段階に入る」
と言いました
 ガンジーの言う「尊敬の段階に入る」のは200年先でしょう

 最期のガンジーの言葉に
 宇宙の秩序正しい道徳的支配への信仰は
開かれた精神性 大いなる宗教性は
あらゆる人の中に 平等にやどっている
 その内なる力を眠らせたままでは決してならない
といいました
 まさしく 仏教の菩薩の考えなのです




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 ここまでが生命の10個の個別化(グループ別)の原理です
十界論 と言います
 これは例外なく 誰でも持っている命なのです
では我々は どうすれば 最高の仏の命を表す(湧現する)事ができるか
その鍵は「信ずる」の一点なのです

 駆け足で書いたので大雑把です 更に説明不足はご承知ください
叉 変な たとえが多くて 正確さに少々(かなり)欠ける所もありますので よろしく
又 書き足し あるいは削除しながら 更に分かり易くと思っています







更に引き続き こちらへ    



   九識論  


 - おもろいはなし -  

竜如     raberu1

法華経提婆達多品第十二。
ここに、竜女(りゅうにょ)が登場する。
法華経以前の経典では、女性は成仏できなかった。竜女は蛇身の畜生であり、まだ八歳の娘であった。その竜女は、法華経を聞き、歓喜して立ち上がり叫ぶ。
「我は大乗の教えをひらいて苦の衆生を度脱せん・汝が神力を以って我が成仏を観(み)よ」
竜女は、即身成仏の証として、男子に変じ、妙法を演説した。烈々たる大確信を語る竜女に、周囲は騒然として揺れ動いた。竜女の姿と言動に無数の衆生が歓喜し、手を合わせ、ひれ伏し、六返に震動した。
このとき、仏教史上初めて、女人成仏が果たされたのである。
華厳経には「女人は地獄の使い・夜叉の如し」とあり、天台大師は、「(他経には)男に記して女に記せず」と述べている。
すなわち、女性は仏になることはできない存在であった。
法華経に至り、釈尊は、真実の教えである証として、ついに悪人も女人も成仏ができることを説いた。



極楽へ行きましょう raberu2
面白くて無断でコピペしました

極楽浄土はどんな世界かといいますと、
まず土地は「七宝」といって、金、銀、瑠璃(青い宝石)、水晶、
白いつやのある貝、赤い真珠、めのうなどでできています。
そして宝の池があります。
池の四方には水の中から岸に向かって、
金、銀、瑠璃、水晶でできた階段があって、
岸の上には、七宝でできた御殿が建っています。
仏教を聞く道場や講堂もあり、
やはり七宝でできています。
そして宝の樹木がたくさん生えています。
極楽浄土の宝の樹木
極楽浄土の宝の樹木は、やはり七宝でできていて、
金の樹木や、銀の樹木、瑠璃の樹木、水晶の樹木、つややかな白い貝の樹木、
赤い真珠の樹木、めのうの樹木や、
それらの組み合わせでできている樹木もあります。
それらにはやはり七宝の葉がしげり、宝の実がなります。
それらの宝の樹が並木となって、至るところに
「羅網」という宝石であまれたきれいな網がかかっています。
それらが極楽の至るところをめぐったり囲まれたりしています。
極楽浄土の美しい音楽
極楽浄土では、どこからともなくすぐれた音楽が聞こえます。
そよそよと風が吹いていて、
宝石で編まれた網や宝の並木を動かすと、
妙なる音が聞こえます。
それは、百千の音楽を同時に聞いたようなすばらしさです。
その音を聞くと、みな仏と法と僧の三宝のご恩を念ぜずにおれないのです。
極楽浄土の宝の池
極楽浄土にある宝の池を「七宝の池」といいます。
池の底には砂金や、その他の宝の砂が敷かれ、
「八功徳水」という、八つの功徳のある水が満ちています。
「八つの功徳」とは、『観無量寿経』の解説書である『定善義』によれば、
きよらかでつやがあり、塩素などの匂いがなく、
軽くて、冷たくて、軟らかく、美味しく、後味のよい究極の水です。
池の水面には、車輪くらい大きな蓮華の花が咲いています。
青い花は青く輝き、黄色の花は黄色く輝き、
赤い花は赤く輝き、白い花は白く輝き、
美しく、香り高く咲き誇っています。
極楽浄土の蓮華の秘密
極楽浄土には至るところに宝の蓮華の花が咲いています。
一つ一つの蓮華の花には、百千億の花びらがあり、
白や黒はもちろん、黄色や朱色、紫など、
限りない色の輝きを放っています。
その一つ一つの宝の蓮華の花は、三十六百千億の光を放っています。
その一つ一つの光から、三十六百千億の紫金の仏さまが現れます。
その一仏一仏が、それぞれ百千の光明を放って、
大宇宙の限りない人々のために、
妙なる法を説きに行かれます。
それが、大日如来や薬師如来、
地球の私たちのもとに来られたのは、
お釈迦さまです。
極楽浄土ではどんな生活をするの?
極楽に生まれた人も
極楽浄土のありさまと同じく、
言葉で言い表せない人間の想像を超えた姿で
「自然虚無(じねんきょむ)の身」を受けていると
説かれていますが、お釈迦さまは、
少しでも私たちに分かるように教えられています。
それによれば、極楽浄土に生まれた人は、
みなまったく差別なく競争もなく、姿形も違いはありません。
清らかな身体で、智慧が高く明らかで、神通力もえられます。
端正な顔立ちは、人間界最高の美男美女どころか、
その何億倍も美しい天人や天女さえもはるかに超え、
さらにその百千万億倍の美しさです。
そして美しい服を来て宮殿に住み、
美味しい食べ物を食べています。
極楽浄土の朝
朝が来ると、極楽にいつも花吹雪のように空から降っている
白蓮華の花びらを入れ物に入れて
大宇宙の十万億の仏方にお供えしに行きます。
(他にも好きなものを何でもお供えできます)
そして、どこからともなく流れる美しい音楽に合わせて
仏の徳をほめたたえたり、仏の教えを聞いて、
限りない喜びを感じます。
極楽浄土の食事
食事の時間には戻ってきて、食事をしようと思うと、
面倒な食事準備はしなくても、自然に目の前に七宝の食器が現れて、
「百味の飲食(ひゃくみのおんじき)」が満たされます。
ところが実際に食べる人はなく、
それを見たり、かぐわしい香りを味わったりすると
食べる前にすっかりお腹いっぱいになります。
すると食事は、手間のかかる食事片付けはしなくても、
ひとりでに消えてしまい、極楽浄土を散歩しにいきます。
極楽浄土で仏教を聞ける
阿弥陀仏が極楽浄土の講堂で、妙なる法を説法なされるときには、
みんな集まって聴聞し、心に喜びとさとりを生じない人はありません。
どこからともなく風が吹いて、宝の樹木がそよいで、
ファンファーレのように美しい音楽をかなで、
美しい花吹雪が限りなく散り乱れます。
そうでなくても極楽浄土には、
鶴やクジャク、オウム、かりょうびんがなどの鳥がいて、
いつも仏法を説いています。
もちろん極楽浄土には、地獄、餓鬼、畜生はないので、
これらの鳥は、過去世の悪業の報いで畜生界に生まれたものではなく、
法を説くために生まれたものです。
極楽浄土に生まれた人は、これらの鳥の声によっても仏法を聞くことができ、
仏法僧の三宝のご恩を念ぜずにおれないのです。
苦しむ人を助けることができる
そして「恩を知るは大悲の本なり」と説かれるように、
極楽浄土に生まれた人は、
大慈悲の心がありますから、まだ苦しみ悩む人がいるのに、
「自分だけ助かったからもういいや」とは思えません。
いつでも好きなときに、苦しみ悩みの穢土に戻ってきて、
仏教を説いて、縁のある人から救うことができます。
それがまた、極楽に往って仏に生まれた人の喜びなのです。
このような極楽浄土や、浄土に生まれた人の様子は、
あまりに素晴らしすぎて、お釈迦さまの大雄弁をもってしても、
「百千万劫かけても説き尽くすことはできない」
と言われています。
では、この極楽浄土にどうすれば生まれられるのでしょうか?
お釈迦さまは、
「極楽浄土は非常に往き易いが、往っている人が少ない」
と説かれています。
どうしたら極楽に行けるのか
お釈迦さまが往っている人が少ないと説かれるように、
極楽浄土へは、死にさえすれば誰でも往けるのではありません。
修行や学問で行ける世界でもありません。
極楽浄土への行き方は2通りあります。
1つは、以下の3つの条件を満たすことです。
1.一日数万回念仏を称える
2.臨終に心を乱さない
3.臨終に阿弥陀仏にお迎えに来て頂く
しかしながらこの3つの条件は、毎日数万回念仏を称えることは
実際には非常に難しいことですし、
臨終に心が乱れたり、阿弥陀仏にお迎えに来て頂けなければ、
因果の道理にしたがって火車来現して次の世界に沈むので、
死ぬまで極楽に往けるかどうか分からず、
死ぬまで不安はなくなりません。
もう一つは、仏教を聞いて、生きている元気なときに
六道輪廻の根本原因を絶ちきられることです。
それは煩悩ではないので、それさえ絶ちきられれば、
煩悩あるがままで、いつ死んでも極楽往き間違いなしの身になります。
ですから生きているときに仏教を聞くだけで
極楽浄土には簡単に往けるのに、
みんなそれをしないので、
お釈迦さまは、「極楽浄土には往き易くして人なし」
と説かれているのです。
では、煩悩ではない迷いの根本原因とは何かについては、
分かりやすいように以下のメール講座と、小冊子にまとめてあります。
ぜひこれを知って、極楽浄土へ往ける身になりましょう

・・・・・(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)。








煩悩即菩提    raberu3

「煩悩即菩提」の「煩悩(ぼんのう)」とは、
私たちを「煩」わせ「悩」ませるもの
ということです。

全部で108ありますが、
中でも最も私たちを苦しめるのは、
「三毒の煩悩」といわれる、
欲や怒りや愚痴の心です。

私たちは、お金や財産、地位、名誉を求めて争い、
恋人を求めて欲の心に馳せ使われて苦しんでいます。

自分の思い通りにならないことがあればイライラし、
腹を立てれば人間関係を焼き尽くし、
怒りの心で苦しんでいます。

誰か気に入らない人がいれば、
嫉妬やねたみ、恨み呪いの愚痴の心で、
陰口や意地悪をし、日々、嫌いな人を呪い続けて
自ら苦しんでいます。

このように、自らを苦しめている心が煩悩です。
私たちを苦しめるものが、お金や財産、地位、名誉や周りの人々ではなく、
自分の心だと知らされれば、
煩悩をなくせば幸せになれると思います。

煩悩をなくせば幸せになれる?
そこで煩悩をなくすために、
仏教では、出家して、戒律を守り、
煩悩をなくす修行を行います。

ところが、煩悩をなくそうとすればするほど、
煩悩が噴き上がってくる自分の心が知らされます。

例えば欲の心なら、
欲望のままに好き放題やっている私たちは、
欲望を抑えるくらい簡単なように思います。

ところが、実際に欲望を抑えようとしてみると、
欲の心の強さが知らされて来ます。
ちょうど、美味しい物を好きなだけ食べているときは
食欲を感じませんが、ダイエットや食事制限をしてみると、
お腹がすいて、食べたいという衝動が常にわき上がり、
食欲の強さが実感されてくるようなものです。

仏教では、すべての人は「煩悩具足(ぼんのうぐそく)」である
と教えられています。

「具足」とは、それでできている、
それ以外に何もないということです。
雪だるまから雪をとったら何も残らないように、
人間から煩悩をとったら何も残らない、
煩悩の塊が私たちだということです。

もし私たちに清らかな心があって、
それが煩悩によってさびついているだけならば、
厳しい修行によって磨いていけば、
やがてきよらかな心が磨き出されることも
あるかもしれませんが、
煩悩具足ということは、100%煩悩です。

真っ黒な炭の塊は、どれだけ磨いてもきれいになることはなく、
何もなくなってしまうように
煩悩具足の私たちがいくら煩悩をなくそうとしても
それでさとりを得ることはできないのです。

煩悩即菩提の即とは
煩悩をなくすことができないとすれば、
幸せになるには、煩悩をそのまま幸せに転じるしか
ありません。

煩悩即菩提の「即」とはそのまま転ずるということです。

西洋と東洋の考え方の違いでいえば、
西洋では、悪いものをなくそうとするのに対して、
東洋では、悪いものをいいものに
転じようとするようなものです。

西洋の医学では、
ガンのような悪いところがあれば、
手術で切り取ってなくそうとします。

それに対して、東洋の医学では、
切り取らずに、漢方薬を飲ませたり針を打ったりして、
そのまま善く転じようとします。

西洋のチェスでは、
相手の駒をとったらそれで終わりですが、
東洋の将棋では、
相手の駒をとったら味方として復活します。

ちょうどそのように、
煩悩を、そのまま菩提に転じてしまうのが、
煩悩即菩提です。
「菩提(ぼだい)」とは喜びのことです。

これが仏教に教えられる究極の幸せなのです。
ではそれはどんな世界なのでしょうか?

言葉で表せない絶対の世界
ところが、煩悩即菩提の世界は、
究極の幸せですので、
言葉で表すことは困難です。

たとえば、多くの人が知っている、
コーヒーの香を言葉で表すことができるでしょうか?

言葉には限界がありますので、
コーヒーの香を知らない人に、
言葉で伝えることはできないと思います。

このようなありふれた体験でも難しいのに、
ましてや仏教を聞かなければ誰も知らない
究極の幸せです。

言葉であらわすことはできないのですが、
それでも、何とか伝えようと、
色々なたとえで教えられています。

煩悩即菩提を表されたたとえ
氷と水の関係
煩悩がそのまま喜びに転ずることを
よく氷と水にたとえられてます。

氷が煩悩で、水が菩提を表していますが、
氷が多ければ多いほど、
水も多くなります。

ちょうどそのように、
煩悩が多ければ多いほど、喜びも大きくなります。

借金がそのまま貯金になってしまうようなものです。

渋柿の渋がそのまま甘みかな
これを教えられた歌に、昔から
「渋柿の渋がそのまま甘みかな」
という言葉があります。

表面に白い粉をふいて甘い干し柿がありますが、
あれは元から甘かったのではなく、
渋柿を干してできたものです。

渋柿は、少しかじっただけで、
口が曲がるほどの渋みがありますが、
渋柿の渋を抜いて、甘みを入れて
干し柿にしたのではありません。

渋柿の渋が甘みになったのです。
ですから渋柿が渋ければ渋いほど、
甘い干し柿ができます。

ちなみにこれは、たとえで表しにくいところですが、
煩悩がやがて悟りの縁となることではありません。
「即」というのは、そのままということで、
同時にあるのです。

これが同時であることを表したたとえには、
「太郎と美少女のたとえ」というのがあります。

太郎と美少女のたとえ
昔、太郎さんは、山を一つ越えて
何キロも離れた隣村の学校に通っていました。
雨がふると大変です。遠いしぬれるし坂道だし、
学校へ行く気が失せてしまいます。

ところが、ある日、同じ村に
美少女が引っ越してきて、
女の子一人で山道を行くのは危ないので、
二人で一緒に登下校することになったのです。

それから学校に行くのが楽しみになりました。
特に、雨がふると最高です。
カサを持ってこなければ、
彼女のカサに入れてもらえます。

山も道も少しも変わらないのに、
今まで苦しみだった山道は、
遠ければ遠いほど嬉しく、
雨は降れば降るほど嬉しくなったのです。

このように、煩悩は少しも変わらないのに、
そのまま喜びに転じてしまうのが、
煩悩即菩提です。

これは頭で理解しようとしても無理ですが、
煩悩即菩提の身になって、
煩悩即菩提の体験をすることは
誰でもできます。

どうすれば煩悩即菩提になれるのか
ではどうすれば煩悩即菩提の身になれるのかというと、
煩悩と菩提は一つだと気づくとか、思い込むということではありません。
煩悩即菩提にならないのに、
頭だけで気づいたり思い込めるものではありません。

煩悩即菩提といわれるように、
煩悩あるがままで、究極の幸せになれるわけですから、
仏教では、苦悩の根元は煩悩ではないと教えられています。
その煩悩と別にある苦悩の根元を断ち切れば、
煩悩即菩提の幸せの身になれるのです






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龍樹

 龍樹は西暦150~250年頃の人で、ナーガールジュナ(Nagarjuna)といいます。デカン高原のクリシュナ川流域にナーガルジュナコンダ Nagarjunakonda(ナーガルジュナサーガル Nagarjuna Sagar)という地名があり、そこに有名な仏教遺跡がありますが、そこの出身ともいわれます。(筆者による旅行記あり
 インドのバラモン(婆羅門)の学問をすべて習得したのち仏教に転向して、当時の上座部仏教と初期大乗仏教とを学んで大乗仏教に傾倒し、あまたの諸経典に通暁し、初期般若経典の空をもって大乗仏教の地位を確立した大論師です。

龍樹出現の意義

 龍樹の功績はなんといっても、大乗仏教を体系づけ、理論武装して伝統的な部派仏教(小乗)に比肩するに値するものとならしめたことにあります。龍樹の出現がなければ、大乗仏教はただの異端な在俗信徒による俗信に留まっていたかもしれません。

龍樹の教学

 龍樹は、仏教の原初からあった「空」の考えかたを、般若経の「空」の解釈により深め体系化しました。その「空」の思想は中観派として後に多大な影響を及ぼします。龍樹以後の大乗仏教は多かれ少なかれ彼の影響下にあり、龍樹は八宗の祖とたたえられます。
 ただし、その仏教は在俗信徒をも含めた在家仏教的な初期大乗を、出家仏教にならしめてしまったという面があります。さらには、上座部仏教の煩瑣な教理に対峙していた大衆的で平易な初期大乗を、煩瑣で難解なものにしてしまったかも知れません。

 「空」のサンスクリットの原語は sunya であり、欠如という意味です。また、インド人が発見した0(ゼロ)という数字を表します。当初の仏教経典では単に「空虚」や「欠如」という意味に用いられていたようです。紀元前後に『般若経』が成立する以前には、「空」が仏教の中心思想であるような主張はないそうです。

 初期大乗の『般若経』が成立しだすと、『般若経』は部派仏教(小乗)を批判します。上座部仏教の固定化した型に対して、「空」の立場から批判するのです。また、『般若経』では何ものにもとらわれない「空」の立場に立ち、またその境地に至るための菩の行(六波羅蜜)の実践を説きます。その中でも般若波羅蜜の体得が強調されます。

 龍樹はこれを受けて、
空の思想を論理的・哲学的に整理し、それまでの部派仏教の思想がその原理を固定化・実体化すると矛盾に陥ることを示して論破しています。すべてのものは実体がなく空である(無自性)という立場を表明しています。

龍樹の著作

 主著は『中論』(『中頌』 大正新脩大藏經 30巻1頁)です。また、『大智度論』『十住毘婆沙論』『十二門論』などは有名で、中国や日本に重要な影響を与えました。しかし『大智度論』『十住毘婆沙論』『十二門論』は、漢訳のみしか存在せず、真作であるかどうか疑われています。
 なお、真作としては、『廻諍論』(大正新脩大藏經 32巻13頁)『空七十論』『広破論』があります。

龍樹の逸話

 龍樹について面白い伝承があります。龍樹が出家する前に、隠身の術により仲間とともに宮中の美女のいる後宮(こうきゅう)に忍び込んで快楽を尽くしました。しかし、対策を講じた王により、忍び込んだ4人のうち龍樹を除く3人が即死する結果となり、欲望は苦の原因であると悟って出家したということが、鳩摩羅什訳の『龍樹菩薩傳』(大正新脩大藏經50巻184頁)の前半にあります。

龍樹と中国仏教

 龍樹の中観仏教を中国にもたらしたのは、訳経者として著名な鳩摩羅什(350-409頃)です。この系統から三論宗が成立しました。この鳩摩羅什は、『坐禅三昧経』『阿弥陀経』『大品般若経』『法華経』『維摩経』『大智度論』『中論』などを訳している名訳者です。ただ、その訳経には般若経典に関わりのない『法華経』にすら中観派の思想が混入しているという指摘もあります。